サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2021年9月29日にハロウィン仕様の育成ウマ娘ふたりが新たに実装された。本記事では、そのうちのひとり[シフォンリボンマミー]スーパークリークの能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

※同時に実装されたハロウィン衣装のライスシャワーの記事はこちら

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『ウマ娘』のスーパークリーク

公式プロフィール

  • 声:優木かな
  • 誕生日:5月27日
  • 身長:168センチ
  • 体重:微増(理由はナイショ)
  • スリーサイズ:B97、W61、H91

全てを受け止め、許し、なぐさめてくれる甘やかし上手なウマ娘。時に人をダメにし、一緒に自分もダメになるが、その母性の力は凄まじい。自分が成長するより、相手を一人前にすることに喜びを感じるタイプ。
オグリキャップ、タマモクロスのよきライバル。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

スーパークリークの人となり

 初期実装キャラクターのひとりでもあるスーパークリーク。彼女をひと言で表すと“ママ”である。彼女のその溢れ出る母性やら何やらにやられて彼女のトリコになってしまったトレーナーは、いまも後を絶たない。

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 何しろ、本人が“甘やかしたがり”なのだ。その姿勢は、トレーナーだけでなくほかのウマ娘たちに対しても変わらない。過剰なまでの世話焼きぶりに、むしろやや困惑気味だったりもする。最大の被害者(?)は、栗東寮で同室のナリタタイシン。スーパークリークと主戦騎手が同じ武豊騎手であったことや、ともにクラシック期に不慮のトラブルに遭ったという共通点がある。タイシンは他人と馴れ合うことを嫌う性格でもあり、クリークを苦手としているようだ(クリークと同室なんてうらやましいのに)。

 競走馬のスーパークリークは、オグリキャップ、ヤエノムテキ、サクラチヨノオー、メジロアルダン、バンブーメモリーらと同い年。そのため、『ウマ娘』の人気コミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』でも、クリークはオグリのクラスメイトとしてときどき登場している。さらにテレビアニメSeason1では、ファン感謝祭の大食いグランプリにオグリキャップ、タマモクロスとともに出場。激戦をくり広げるが、終盤でオグリキャップの皿に自分のドーナツを飛ばしてしまい、失格となってしまう。これは元ネタがあるが、それについては後述する。

 『ウマ娘』での通常☆2バージョンの勝負服は、カラーリングにリアルでの配色(グレー地に青襷、青袖)がうまく反映されたデザインとなっている。ショルダーバッグには応急処置の道具が入っていて、もしもの時に使うようだ。

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画像は『ウマ娘』公式サイトより。

 ゲームでは、彼女のSSRサポートカードが多くのトレーナーたちを助けてきた。回復系スキルの大本命“円弧のマエストロ”のヒントがもらえるイベントがあるほか、上限解放前から“トレーニング効果”が高く、彼女がいるといないとでは育成の安定度がまるで違うほどだ。

[シフォンリボンマミー]スーパークリークの能力

 今回実装されたハロウィン衣装のスーパークリークは、スピード+14%、スタミナ+8%、根性+8%と、中距離ウマ娘として育てやすそうな成長率。

 固有スキル"ぐるぐるマミートリック”は、“最終直線を好位置で走行中、前のウマ娘との距離が近いと抜け出しやすくなる”という効果。セイウンスカイなどの逃げウマ娘に対しての優位性が気になるが、レアスキル“魅惑のささやき”を持っているのでデバフウマ娘として使うのもいいかもしれない。

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スーパークリークの血統

スーパークリーク血統表

 スーパークリークは1985年5月27日、北海道門別町生まれ。父はノーアテンション(父グリーンダンサー)、母はナイスデイ(父インターメゾ)。牧場の方針で、天皇賞(春)や菊花賞を意識した、これでもかというくらいの長距離血統となっている。なお、配合を考えたのはマイネル軍団、ビッグレッドファーム(コスモヴューファーム)を率いて、日本一の相馬眼の持ち主と言われた故・岡田繁幸氏だ。

 父のノーアテンションは重賞勝ちこそないものの、フランスで活躍したステイヤー(長距離馬)だった。引退後は日本で種牡馬入りしており、代表産駒にはスーパークリークのほか、日経賞を勝ったテンジンショウグンなどがいる。産駒も晩成のステイヤーが多かった。

 母のナイスデイは現役時代は地方競馬で走っていた。その父インターメゾの代表産駒には、“緑の刺客”グリーングラスがいる。グリーングラスは1970年代に、“天馬”トウショウボーイ(ミスターシービーなどの父でもある)や“流星の貴公子”テンポイントとともに“TTG”と呼ばれ、競馬史に残るライバル関係を築いたステイヤーだ。

 また、ナイスデイの祖父にあたるサヤジラオは、イギリスのセントレジャーステークス(日本の菊花賞に当たる長距離レース)の覇者でもある。岡田氏はこういったところを参考にして、クリークの配合を考案したのだろう。

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競走馬のスーパークリーク

スーパークリークの生い立ち

 日本競馬は1980年代半ばから、欧米にならって短距離~中距離路線を勝てる馬が重宝される風潮が強くなってきていた。そんな時代に逆行するかのような血統背景と、生まれつき左前脚が外向していた(脚部不安は一生ついて回った)こともあって関係者からの評価は低く、セリでもなかなか買い手が付かなかった。

 体格は幼駒のころからやや大柄で、2歳(当時の表記では3歳)秋のデビュー時点で502キロ、古馬(シニア級)になってからは520キロ前後と堂々とした体格だった。なお、顔が大きいと指摘されることも多かったようだが、武豊騎手はそのたびに「そんなことはないですよ」と否定していたという。

 性格は物静かで、何事にも動じないタイプだったようだ。誰に何と言われようと動じずにいろいろな人を甘やかそうとする『ウマ娘』での性格は、ここにも由来があるのかもしれない。

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スーパークリークの現役生活

「もしもその馬が、その男に出会わなかったら。
 もしもその男が、その馬に出会わなかったら。
 天才を天才にした馬、スーパークリーク。
 本当の出会いなど、一生に何度あるだろう?」

出典:JRA・2013年のテレビCMより

2歳(ジュニア級)

 1987年にデビューしたスーパークリーク。じつはこの年は、日本の中央競馬で史上もっとも勝利を収め、52歳となったいまでも第一線で活躍する武豊騎手がデビューした年でもある。

 武騎手のデビューはこの年の3月。デビュー後から勝ちまくり、新人最多勝記録を27年ぶりに更新していた。クリークの初出走は、武騎手から遅れること12月5日、阪神競馬場芝2000メートルの新馬戦である。夏に予定していたデビューを体調不良で取りやめた後、何とかこぎつけたこのレースだったが、フラフラ斜行しながらも僅差の2着に滑り込んだ。そして3週間後の2戦目で早くも勝ち上がる。ただし、このときはまだ、武騎手はクリークに騎乗していなかった。

3歳(クラシック級)

 年が明けて1月の福寿草特別を4着、2月のきさらぎ賞を3着と、勝ちきれないまでも好走。そして3月のすみれステークス(当時はすみれ賞)で、とうとう武騎手と初コンビを組むことになる。このレースでは、スーパークリークが事前に脚を痛がるそぶりを見せていたため、武騎手も慎重な騎乗を心掛けていた。しかし、勝負どころで仕掛けると、怒涛の末脚を見せて差しきってしまったのだ。これはとんでもない才能だと、若き天才はすっかり惚れ込んだという。「ほかの誰にも渡したくない」と語っていたほどで、その後スーパークリークが引退するまで1度も乗り替わることはなかった。

 クリークのつぎなる目標は日本ダービーに設定され、ステップレースである青葉賞に向けて調整を続けていたが、調教中に左前脚を骨折。秋まで休養することになってしまった。すみれステークスの前から気にしていたところであり、ゲームの“小さなほころび”の元ネタにもなっている。

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 秋に復帰すると、9月の神戸新聞杯は3着とまずまずの走り。じつは当時、神戸新聞杯はまだ菊花賞トライアル競走ではなく(トライアルになるのは3年後の1991年から)、優先出走権は次走の京都新聞杯(1999年まで菊花賞トライアル、2000年から現在の5月開催に)で狙う予定だったのである。

 しかし、自信を持って出走した京都新聞杯では道中不利を被ってなんと6着に敗れてしまう。賞金も足りないため、菊花賞には出走が叶わなくなってしまった。

 すでに有力騎手の仲間入りを果たしていて、スーパークリークにこだわらなければほかの馬で菊花賞に騎乗できるだろうと言われていた武騎手だったが、「クリークが出られないのなら菊花賞に出られなくてもしょうがない」と、出走予定馬の“キャンセル待ち”に懸けることを明言する。

 そして奇跡は訪れた。

 スーパークリークの配合を考えた岡田繁幸氏のマイナルフリッセが出走を取りやめ、さらに有力視されていた関東馬センシュオーカンが負傷して出走回避をしたことで、最後の切符が舞い込んできたのである。

 迎えた菊花賞本番。スーパークリークは3番人気に支持された(1番人気はこの年の皐月賞馬ヤエノムテキ)。クリークを駆る武騎手は馬群の中にポジションを取って中団に控えると、4コーナーから“インに潜って”早めにまくる作戦を決行。長距離レースで大外からまくるシーンはよく見られるが、最内から抜け出すパターンはなかなかない。結果、2着に5馬身、0秒8もの大差をつけての圧勝劇となるのだった。武騎手はこのレースでの冷静な騎乗ぶりが高く評価されて“天才”と呼ばれるようになる。

 人馬ともに初めてのGI制覇。さらに武騎手は史上最年少でのクラシック勝利に加え、10年前にこのレースを制した父・武邦彦氏との親子制覇も達成した。

1988年 菊花賞(GⅠ) | スーパークリーク | JRA公式

 しかし、次走の有馬記念ではオグリキャップ、タマモクロスの2強に次ぐ3着と健闘……したかに見えたのだが、最後の直線でメジロデュレン(菊花賞と有馬記念を制した馬で、メジロマックイーンの異父兄)の進路を妨害したため失格処分に。このレースが、先述したテレビアニメの大食い大会の元ネタである。

※2021年9月29日追記:メジロデュレンの戦績を修正しました。

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4歳(シニア級)

 春シーズンには長距離の最高峰、天皇賞(春)がある。クリーク向けのレースであり、そこで有馬記念の雪辱といきたいところだったが、年明けに発症した後脚の筋肉痛の影響でシーズン前半は休養を余儀なくされる。

 ようやく10月の京都大賞典で復帰すると、それまでの差しから先行にスタイルを変更し、なんとコースレコードで圧勝。コテコテの長距離血統ながら、スピードも備えているところを見せ付ける。

 そして天皇賞(秋)では、ライバルのオグリキャップ、イナリワンと激突。彼ら3頭は、いずれも実力派揃いで、かつ元号が平成に変わって間もない時期だったため、“平成三強”と呼ばれた。

 このレースで2番人気に支持されたスーパークリークは、先行策から早めに先頭に立つと、メジロアルダンをしたがえながらオグリキャップの猛追をしのいでGI2勝目。完璧なレース運びは、後にテイエムオペラオーが得意とした“僅差圧勝”とよく似ている。タイムも1分59秒1となかなか優秀だった。ちなみにイナリワンは6着に敗れている。

1989年 天皇賞(秋)(GⅠ) | スーパークリーク | JRA公式

 続くジャパンカップは、ニュージーランドの伏兵ホーリックスがマイルチャンピオンシップからの連闘で参戦したオグリキャップを抑え、2分22秒2の世界レコードで優勝したレース。ここでクリークは、勝ち馬から3馬身半差の4着と健闘する。

 年の瀬の有馬記念は勝利が目前だったものの、ゴール直前でイナリワンに差しきられ2着という結果に。天皇賞(秋)から有馬記念までは、平成三強が勢揃いした数少ないレースでもあった。

 じつは武騎手は、平成三強の全員に乗ってGIを勝っている。ただ、クリークに乗れるレースではつねにクリークを優先した。クリークの休養中に騎乗して天皇賞(春)、宝塚記念を勝ったイナリワンをあっさり譲ってクリークの元に帰ってきたのだから、その愛は本物だったと言えよう。

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5歳(シニア級)

 この年は大阪杯(当時はGII)から始動。これを楽勝すると、イナリワンの待つ天皇賞(春)へ歩を進める。最強ステイヤーを決める戦いは、1度たりともライバルを前に出させなかったスーパークリークが半馬身差をつけて勝利。道中3~4番手から、荒れた最内ではなくあえて少し外目を走り、イナリワンに最良のコースを譲らない見事なレース運びだった。そして天皇賞(春)を獲るためにこだわり抜いた配合が、最高の栄誉をもたらしたのだった。

1990年 天皇賞(春)(GⅠ) | スーパークリーク | JRA公式

 強い。あまりに強い。この結果を見た陣営は、宝塚記念から凱旋門賞という青写真を描いた。

 しかし、またしても筋肉痛を発症し、休養を余儀なくされてしまう。当然、宝塚記念も凱旋門賞もあきらめることに。たらればではあるが、欧州のスタミナを必要とする深い芝でも、スーパークリークなら戦えたかもしれない。返す返すも残念なケガだった。

 秋は天皇賞(秋)の連覇を目指して京都大賞典で復帰。これに前年度に続いて勝利し、重賞6勝目を飾る。しかし、今度は左前脚の繋靭帯炎が判明。治療を続けたが、無理をして悪化させ、命を落としては元も子もないと引退することになった。

 現役通算16戦8勝、重賞6勝、GIも3勝と、堂々たる成績を残して種牡馬入り。4着以下は4回しかなく、終始安定した走りを見せた馬だった。

 繁殖においてもスタミナとスピードを兼ね備えた彼への期待は大きく、総額15億円ものシンジケートが組まれた。“相手を一人前にすることに喜びを感じる”ウマ娘としての設定は、天才騎手の武豊を育て、二人三脚で頂点へと上り詰めたその軌跡から生まれたものなのだろう。

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エンディングイベントの“一生に一度の出会い”というタイトルは、本記事で紹介したJRAのCMが元ネタと思われる。

スーパークリークの引退後

 1991年より北海道の日高スタリオンステーションで種牡馬となったスーパークリークだが、自身の現役時代のような華々しい活躍は飾れず、2003年ごろからはほとんど種付けも行われなくなった。そして2010年8月29日、7月に亡くなったライバル、オグリキャップの後を追うようにこの世を去った。

 なお、もう一方のライバル、イナリワン(1歳上)は2016年に32歳(人間換算で90歳くらい)で亡くなっている。

著者近況:ギャルソン屋城

 リアル競馬&競馬ゲームファンでもある、週刊ファミ通『ウマ娘』担当ライター。誕生日:9月5日、身長:168センチ、体重:微減(虫歯の治療中)。

 累計課金額は5880円(パック更新忘れ期間含む)の、王道微課金プレイヤー。「ストーリーを楽しむエンジョイ勢だから」とつねづね口にしているが、本当は勝ちたくてしょうがないらしい。

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