サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年9月20日に新たな育成ウマ娘“星3[Rocket☆Star]シーキングザパール”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のシーキングザパール

公式プロフィール

  • 声:福原綾香
  • 誕生日:4月16日
  • 身長:168センチ
  • 体重:世界的に完璧
  • スリーサイズ:B91、W57、H87

小さくまとまることを嫌い、世界ではどんなことも起きうると体当たりで示す、アクティブお姉さん。
海外を転々としながら育ったゆえ、自身と表現力の塊。笑いを振りまきながらも結果を出す才女である。
英語は話せないが、ボディランゲージで悠々カバーする。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

シーキングザパールの人となり

「世界は可能性に満ちている! そう、真珠のような私みたいに!」

 世界レベルの意識の高さと自信に満ち溢れた言動、それを裏付ける確かな実力……。『ウマ娘』の世界で真珠のように燦然と輝く、スケールの大きなお姉さんである。

 アメリカ生まれの帰国子女だが、英語は話せない。しかし、ルー語、出川語を彷彿とさせるノリに身振り手振りを加えた力業で、ネイティブのタイキシャトルともスムーズにコミュニケーションをとれるのでノープロブレムなのだ。

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

 栗東寮所属で同室はカワカミプリンセス。カワカミの育成シナリオでは、パールがルームメイトとして、誹謗中傷にあって落ち込むカワカミをさりげなくフォローしたり、トレーナーに彼女の魅力をアピールしてあげていたりするなど、心温まるシーンが散見される。

 また、モデル馬は海外遠征で多くの活躍馬を輩出した“1994年生まれ世代”。ウマ娘となった同い年の馬にはタイキシャトル、サイレンススズカ、マチカネフクキタル、メジロドーベル、メジロブライトなどがいる。また、『ウマ娘』に登場していない競走馬のなかにも“キンイロリョテイ”のモデルと言われるステイゴールドやブロードアピールなど、競馬ファンの胸を熱くさせる名前が揃っている。

 ゲームではそのほか、ややノリが似ているマルゼンスキーとの絡みも見られる。マルゼンスキーとパールは同じ祖先を持つ(アメリカの超名馬バックパサー。マルゼンスキーの母父、パールの父の母父)という共通項があり、そのあたりも関係しているのだろうか。

 勝負服のデザインは、モデル馬が用いていた勝負服の後期のカラーリング(赤地、白星散、赤袖)やデザインが反映されている。全体に星や真珠がワンポイントとしてあしらわれている。大きめのサングラスはセレブっぽさを演出しているのかもしれない。

競走馬のシーキングザパール

シーキングザパールの生い立ち、特徴

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

 1994年4月16日、アメリカ合衆国の東海岸に位置するヴァージニア州、レイジー・レーン・ステーブルズにて生まれる。父はシーキングザゴールド、母はページプルーフ。母はパールの活躍を受け、のちに日本へやって来ることになる。また、一族からは2019年のJBCスプリントを勝ったブルドッグボスが出ている。

 1歳時にセール(セリ市)に出されるが買い手が付かず、また牧場に戻るなど、最初から注目されていたわけではなかった。しかし、若駒のころから非常に落ち着きがあり、いつも何か考えごとをしているような雰囲気があったようだ。その後、のちにオーナーとなる日本人女性と運命的な出会いを果たし、購入されることとなる。

 購入されたパールは、すぐに日本へ向かわずにケンタッキー州のストーンファームで育成された。あのサンデーサイレンスが生まれた牧場である。ここで4ヵ月ほど過ごしたのち、いよいよ日本へと輸送され、デビューへ向けて調教を開始されたのである。ウマ娘としてのプロフィールの“海外を転々としながら”というのは、当時のエピソードが元になっているのだろう。

 気性面では、ふだんはとてもおとなしく、また人懐っこい馬だったという。ゲームでもカワカミとのやり取りで見せたやさしさや、サポートカードイベントでのポジティブな奇行などに、そんな彼女の性格がよく表れている。しかしいざ人がまたがると馬が変わったように言うことを聞かなくなり、レース中にヘソを曲げて凡走してしまうなど、早くから“気性難”で有名になってしまった。わからないものである。

 体質面では、3歳時に喉鳴りに悩まされて手術を行ったものの、それ以外にはとくに大きなケガも病気もなく、5歳秋まで走り続けている。

シーキングザパールの血統

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

 父シーキングザゴールドはアメリカ生まれ。現役時代は中距離戦線をメインに15戦8勝という成績を残し、GIも2勝している。種牡馬入り後は、自身とは異なり短距離~マイルで活躍する産駒を多数輩出した。ドバイワールドカップなどを勝った歴史的名馬ドバイミレニアムもその1頭である。日本ではパールを筆頭に、マイネルラヴ、ゴールドティアラと3頭のGI級勝ち馬を送り出している。

 産駒の距離は2000メートルあたりが限界だったようだが、馬場に関しては芝ダート問わず走れる馬が多かった。もっとも、パールはダートはあまり得意ではなかったようで、ダート戦は5歳時に一度挑戦して4着に敗れたのみとなっている。

 母のページプルーフは、史上初の無敗のアメリカ三冠馬で、最強馬の呼び声も高いシアトルスルーの産駒。パールを産んだ後には日本に輸入された。ページプルーフの産駒はいずれも頑丈で、初仔のナイトリーダー(アメリカ)は生涯で90戦以上走ったという記録が残っている。ただ、残念ながら仔出しはあまりよくなく、14年間の繁殖牝馬生活でデビューできた馬は6頭だけだった。

 パールは父のスピードと母の頑健さという両親のいいところを受け継ぎ、世界へと羽ばたいていったのである。

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

シーキングザパールの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2歳(ジュニア級:1996年)

 佐々木晶三厩舎に所属することになったパールは、順調に調教を重ねていく。血統的にはそれほど注目度は高くなかった彼女だが、その走りはトレセン内外で評判となっていて、デビュー戦では武豊騎手を鞍上に迎えたこともあり単勝1.2倍の断トツ1番人気に支持されることとなった。そしてその期待を裏切ることなく、スタート直後から先頭に立ってレースを進めると、そのまま2着に7馬身(タイム差は1秒1)もの大差をつけて楽勝するのである。

 次走は新潟3歳ステークスに出走。しかし外枠(12頭立て12番ゲート)からスタートすると、いきなり外側へ大きく逸走してしまう。ここで大幅にコースロスを喫してしまったパールは、必死に追い込むも3着まで。早くも気性面に課題が見える1戦となってしまった。ちなみに、このレースにはメジロドーベルも出走していたが、こちらは5着に終わっている。

 立て直しを図る陣営は続いてデイリー杯3歳ステークスに出走させる。ここでは前走で見せた気性面の問題はまったく表れず、2着メジロブライトには5馬身差(タイム差は0秒8)をつけ、2歳馬による芝1400メートルのレコードタイムのおまけつきで圧勝をキメたのである。

 そして女王決定戦である阪神3歳牝馬ステークスへ悠々と歩を進めたパール。単勝オッズも1.5倍と、多くのファンがその勝利を疑っていなかった。

 レースでは3番手から好位をキープ。大方の予想通りパールの勝ちかと思われた。しかし、そこから最後の直線に入ると謎の失速を始め、勝ったドーベルから0秒7も離された4着に沈むことに。騎手も調教師も「原因不明」と首を捻る不可解な敗戦で、“パールは難しい馬”という評価が下されることになる。ウマ娘として彼女が見せる極めて個性的な言動の数々は、こういった気まぐれな一面が元になっているのかもしれない。

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

3歳(クラシック級:1997年)

 とは言え、いつまでも敗戦にクヨクヨしてもいられない。あえて長期休養を挟まずに1月のシンザン記念へと向かったパールは、ここを3馬身差で楽勝。力のあるところを見せ付けた。

 このように、気性面に問題はありつつも実力は抜きん出ていたパールだが、当時外国産馬である彼女には桜花賞やオークスなどクラシック競走への出走が認められていなかった。そこで、外国産馬でも出走できる新設GI“NHKマイルカップ(1996年に創設)”を春の目標とすることとなった。

 森秀行厩舎への移籍というイベントもありつつ、3月のフラワーカップ、4月のニュージーランドトロフィーと重賞を連勝。この2戦では中団に控える“差し”作戦を連続して採用し、新たな勝ちパターンを習得していた。

 そして迎えた本番では、ライバルとして2歳牡馬チャンピオンのマイネルマックスも出走していた。しかし、彼が約半年ぶりのレースだったこともあり、またしてもパールは抜けた1番人気に支持された。

 レースはゆったりとした出だしからよどみのない流れとなり、好位につけて先行する作戦だったパールにとっては絶好のペースに。5、6番手から進んだまま、コース取りを変えることなく最後の直線に入り、スパートを開始するという理想の展開を迎えた。2歳時に見せていた不安定さも表れず、坂を上るところで抜け出すと、最後の200メートルはムチも使わず余裕のビクトリーラン。他馬に着差以上の違いを見せ付ける勝利となった。

 ちなみに、同い年で後のライバルとなるタイキシャトルは、この時点では4月にようやくデビューして5月に2勝目を挙げたばかり。パールとは大きな差がついていた。

 さて、パールの秋の目標は、当時、唯一外国産馬にも出走が認められていた牝馬三冠レースである秋華賞である。距離は2000メートルと、これまで経験したことのない長さとなるが、これまでの走りっぷりから十分こなせると思われていた。このころの下馬評では、桜花賞馬キョウエイマーチ、オークス馬メジロドーベルとともに“牝馬三強”の一角とされている。

 秋華賞の前哨戦であるローズステークスでは、三強のキョウエイマーチと初対決。しかし、いつものように快足を飛ばして逃げるキョウエイマーチの後ろで、パールはまったく伸びない。じつはこのとき、いわゆる“喉鳴り”と呼ばれる喉の病気の症状が出ていたのだ。

 この病気は呼吸困難に加え、脳機能への影響も発生しやすい重い病気なのである。レースをきっかけに喉鳴りを発見した陣営はただちに秋華賞への出走を諦め、手術を施して休養させることを決めたのであった。なお、パールが回避した秋華賞は、オークス馬のメジロドーベルが勝利、キョウエイマーチが2着に入っている。

 なお、パールはこれ以降ドーベルとは路線の違いから相まみえることはなかったが、キョウエイマーチとはマイル戦線で何度も対決することとなる。

4歳(シニア級:1998年)

 約半年の休養を経て、当時4月に開催されていたシルクロードステークスで復帰したパール。さまざまな不安要素が囁かれていたが、能力的にはまったく衰えておらず、ハイペースの消耗戦をクビ差で制して復帰戦を勝利で飾った。

 しかし、続く高松宮記念、安田記念と雨に見舞われたパールは、苦手な不良馬場(高松宮記念は稍重の発表)に手こずり、それぞれ4着、10着と惨敗してしまう。とくに安田記念は勝ったタイキシャトルとともに夏のヨーロッパ遠征の壮行レースとして出走したものであったが、遠征を前に2頭の明暗が分かれてしまった。

 パールが喉鳴りの手術と療養で休んでいるあいだ、タイキシャトルはダートから芝路線に転向し、マイルチャンピオンシップ、スプリンターズステークスと連勝。一躍短距離~マイル戦線の頂点に上り詰め、わずか半年で両者の立場は入れ替わっていたのである。

 国内タイトルを引っ提げ、期待とともに遠征に挑むタイキシャトルの影にパールはすっかり隠れる形になってしまったが、森師はパールが栄光を掴むチャンスを狙っていた。タイキシャトルが出走を表明していたフランスのGIジャック・ル・マロワ賞よりも1週早く(8月9日)開催される、同国のGIモーリス・ドゥ・ギース賞で“日本調教馬初の海外GI制覇”を成し遂げようとしたのである。

 同じGIでも、距離が短いこともあってメンバーがだいぶ落ちるため、「このレースなら勝てる」と森師は勝算を立てていたという。さらに、日本と同じウッドチップと坂路で調教を積めるイギリスのニューマーケットに滞在し、調子を万全に整えた。

 果たして、レースは青天にも恵まれ、乾いたパンパンの良馬場となり、パールには最高の条件が揃った。

 ヨーロッパのレースでは、用意されたペースメーカーがいないとスローになることが多い。このレースもそうした例に漏れず、ゆったりとしたスタートになった。押し出されるようにハナを切ることになったパールだが、相手の手の内がわかっていればそれを逆手にとって戦えばいい。そんな武豊騎手の好騎乗もあって危なげなく逃げ切り、“日本調教馬初の海外GI制覇”という歴史の扉を開くことに成功するのである。

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

 じつはこのときにパールがマークした1分14秒70の走破タイムは、その後2013年にムーンライトクラウドが更新するまで15年間もコースレコードとして残っていた。

 また、結果的に出し抜かれる形となったタイキシャトルだが、その1週後にジャック・ル・マロワ賞を勝ち、日本調教馬2頭目の海外GI制覇を果たしている。

 パール陣営はそのまま2匹目のどじょうを狙おうと、そのままヨーロッパに滞在。9月のムーラン・ドゥ・ロンシャン賞に挑戦する。しかし、今度は雨でドロドロの不良馬場になるわ、他陣営のペースメーカーに徹底マークされて潰されるわで7頭立ての5着と惨敗。無念の帰国となるのだった。

 帰国後は検疫を挟み、11月のマイルチャンピオンシップに出走。同じく海外帰りのタイキシャトルとの対決となった。しかし武豊騎手が騎乗停止中で河内洋騎手に乗り替わっていたからなのか、単純に調子が悪かったのか、先行するも最後の直線でまったく伸びずに8着に終わる。

 同じく先行策からメンバー中最速の末脚で圧勝したタイキシャトルとは対照的な内容で、相変わらずの気性面の難しさを感じさせた。決して大人になりきれず、いつまでも不安定さを残し続けているのも彼女らしいと言えるだろうか。

 そして年内はもう1戦、スプリンターズステークスに出走することに。このレースはタイキシャトルの引退レースでもあり、ここまで全敗していたタイキシャトルへ雪辱する最後のチャンスだった。

 ここで武豊騎手は奇策を打つ。先行馬のパールに最後方待機の作戦をとらせたのである。前走、馬群の中でやや掛かり気味だった彼女だが、生まれ変わったかのように鮮やかな末脚を見せて、逃げ込みを図るタイキシャトルとマイネルラヴを追い詰めていく。そしてタイキシャトルをギリギリで交わしてゴール。

 しかし、アタマ差先にもう1頭、マイネルラヴがいた。会心の騎乗を見せた武豊騎手だったが「まさかもう1頭いるとは思わなかった」と、マイネルラヴ(父親はパールと同じシーキングザゴールド!)の一世一代の大激走の前に涙を飲むこととなった。

5歳(シニア級:1999年)

 ライバルのタイキシャトルは引退したが、パールは現役を続行。すると年明けすぐに、森師がパールのアメリカ遠征を発表する。1月23日のGIサンタモニカハンデキャップ(現・GIIサンタモニカステークス)である。だが、5歳にして初のダート挑戦はうまくいかず、とくに見せ場もなく4着に敗れた。

 そのままダート路線に進むのか……と思いきや、陣営はやはり適性がないと見たのか、芝レースである5月の高松宮記念へ。ここでは1歳上のマサラッキの激走の前に屈したが、それでも2着に入りまだまだ健在だということを示した。

 続く安田記念でも、エアジハード、グラスワンダーといった年下の強豪にこそ敗れたものの3番人気の3着に入る。ライバルのキョウエイマーチは高松宮記念4着、安田記念9着だから、パールの強さはさすがのものである。

【ウマ娘・元ネタ解説】シーキングザパールは世界制覇を初めて実現したパイオニア。名手も手を焼いた二重人格(?)など競走馬の史実を紹介

 しかし、まだまだやれる……とファンも期待していた矢先の7月、パールは突如中央競馬の登録を抹消され、アメリカへ移籍する。そして現地で重賞を2戦戦って4着、7着と敗れたところで引退が決まり、そのままケンタッキー州のクレイボーンファームで繁殖牝馬となることが発表されたのである。アメリカで生まれ、日本で歴史を作り、そしてまたアメリカで歴史を終える。まさに嵐のような競走馬生活であった。

 生涯成績は通算21戦8勝(うち国内外で重賞7勝、GI2勝)、獲得賞金は約4億8000万円。気性が難しく安定した戦績は残せなかったものの、パールの活躍は日本の競馬関係者に自信を与えた。後に、同じ森厩舎のアグネスワールドやエアシャカールも海外GIに挑戦し、アグネスワールドは海外でGIを2勝している。

 いまや当たり前のように行われるようになった海外遠征だが、シリウスシンボリらの苦難の時代を経て、パールやタイキシャトルが成功を収めたことで、ようやく定着したものである。生涯成績としてはパールを上回る名馬は数多く存在するが、日本の馬で海外GIを勝つという歴史を切り拓いたことは、彼女の最大の功績だろう。

シーキングザパールの引退後

 引退後はクレイボーンファームで繁殖牝馬となり、初仔のシーキングザダイヤは日本に輸入されて重賞を5勝、GIで9回も2着に入るなど活躍を見せた。しかし2005年6月、パールは放牧地で突然の死を遂げる。11歳という若さだった。状況から落雷に遭ったと推測されている。

 2番仔のDive、3番仔のSeeknfindはいずれも繁殖牝馬としてパールの血を伝えており、Seeknfindの仔であるアポロノカンザシは日本で繁殖牝馬となり、現在も活躍中である。