サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年5月10日に新たな育成ウマ娘“星3[オールタイム・フィーバー]アイネスフウジン”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

Amazon.co.jpで『ウマ娘』関連商品を検索する
【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

『ウマ娘』のアイネスフウジン

公式プロフィール

  • 声:嶺内ともみ
  • 誕生日:4月10日
  • 身長:167センチ
  • 体重:微増(ちょっと食べ過ぎた?)
  • スリーサイズ:B88、W58、H84

気さくな長女気質のウマ娘。飛び出しの速さに定評があり、責任感が強い。妹2人(双子)がいるため、家計の足しにとアルバイトしているが、本人は重荷に思っている風もない。
母親からもらったトレセン学園でのチャンスを全力で楽しみ、結果を出したいと思っている。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

アイネスフウジンの人となり

 美浦寮所属の明朗快活なウマ娘。実家はあまり裕福ではなく、トゥインクル・シリーズに出場しながらも、休日やトレーニングの後などにアルバイトをして家計を支えている。

 同室はメジロライアンで、レースを前にお互いエールを送ったり、フウジンの買い物をライアンが手伝うなど仲は良好な様子。ただ、ライアンの話題が上がると自分のことを“友人A”と卑下するなど、胸の奥ではコンプレックスを持っているようだ。

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

 なお、史実ではメジロライアンのほか、メジロパーマー、メジロマックイーン、ダイタクヘリオス、イクノディクタスが同い年だが、活躍時期や路線の違いもあって、実際に対戦したことがあるのはライアンしかいない。

 『ウマ娘』の世界では、テレビアニメ第1期のOVA『BNWの誓い』でウイニングチケットが率いる“チームW”のメンバーとして登場しているほか、テレビアニメ『うまよん』ではウマドルユニット“逃げ切り☆シスターズ”に加入して『逃げ切りっ!Fallin' Love』を歌っている。

 性格は面倒見のいい長女気質。そのせいか、周囲の同級生からはよく間違えて「お姉ちゃん」と呼ばれる。実際に妹がふたりいて(後述するが、史実にモチーフとなった双子のきょうだいがいる)、会話の端々で話題に上っている。また、家事スキルも高く料理や裁縫、掃除など何でもこなす。

 一方で語尾に「~なの」とつける口癖があるなど、会話をしているとお姉さんというよりも妹のようにかわいらしく感じるところも多く、そのギャップも特徴と言える。

 家計が苦しいながらも、食へのこだわりは強い。史実でも、アイネスフウジンの放牧地だけ牧草がすぐなくなってしまうこともあり、とにかく食欲旺盛だったようだ。

 外見ではそばかすとサンバイザー(レース時以外にもしている!)が特徴の彼女だが、勝負服は史実の配色やデザイン(桃、緑十字襷)をモチーフにしたもの。原案よりもピンクの面積が増えていたり、かわいらしいチア風衣装になっていたりしている。腰の星は、史実で“零細牧場の星”と賞賛されていたことによるものだろうか。

 なお、インナーにプリントされている“AF”の文字は、史実でメンコに書かれていたものと同じであるが、アイネスフウジンのイニシャルは“I.F”であり、何を意味しているのかはわかっていない。

競走馬のアイネスフウジン

アイネスフウジンの生い立ち

 1987年4月10日、北海道浦河町の中村牧場で生まれる。父はシーホーク、母はテスコパール。近親に2000年のかしわ記念(当時は交流GIII)2着など通算6勝のレディブライティアがいる。また、4つ下の半弟にリアルポルクス、リアルカストールという双子のきょうだい(父ゲイメセン)がいる。

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

 競馬の世界では「双子は走らない」とされており(母馬にかなりの負担が掛かり胎内での発育が悪くなる、などの理由がある。関連記事参照)、受胎した段階で片方が堕胎されるケースも多いのだが、リアルポルクスとリアルカストールは未勝利ではあるものの、2頭ともデビューすることができた数少ない例として知られている。

 中村牧場は家族経営の小さな牧場で、アイネスフウジンの血統もお世辞にも一流とは言えないようなものだった。牧場が解散してしまったタマモクロスほどではないが、アイネスフウジンの実家があまり裕福ではなかったり、双子の妹という設定も、ここからきているのかもしれない。

 馬格はかなり大柄で、デビュー時の馬体重は504キロ、最大時で518キロもあった。ウマ娘としての身長の高さ(167センチ)にもそれが表れている。食欲もかなり旺盛だったようで、アイネスフウジンを放牧に出すと、あっという間に牧草を食い尽くされて放牧地がはげ上がってしまったという逸話も残っている。『ウマ娘』にて、いつもスーパーのチラシとにらめっこして食事メニューを考える食へのこだわりは、こんなところが元ネタになっているのだろう。

 マルゼンスキーが作った伝説的なコースレコードに並ぶほどの圧倒的なスピード能力を誇っていたが、発達した後脚に比べて前脚が弱いという欠点があった。主戦の中野栄治騎手いわく「前輪がパンクした自転車」のような乗り心地だったらしい。また、急速なペースの変化にはついていけなかったこともあり、自分の持ち味を最大に活かす“逃げ”戦法が採用されたようだ。

アイネスフウジンの血統

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

 父シーホークはアイルランド生まれでフランスで活躍、通算7戦3勝ながらGIを2勝している。父系をさかのぼると、6代父サンインローから祖父エルバジェまで、一貫して中長距離で活躍馬を輩出してきた血統であり、シーホーク自身も種牡馬として中長距離に実績を残している。

 1987年生まれのアイネスフウジンは、1963年生まれのシーホークにとって24歳の時の子ども。サラブレッドの24歳は人間に直すと70歳くらいで、また平均寿命もそのくらいだと言われている。とんでもない体力である。

 さらにシーホークはアイネスフウジンの1990年だけでなく、その前年である1989年の日本ダービーもウィナーズサークルで制しており、ふつうならとっくに種牡馬を引退している年齢なのに現役続行、種付け料も一気に跳ね上がるという伝説を残した。

 一方、母テスコパールの父はテスコボーイ。テスコボーイは快足で知られたプリンスリーギフトの血を引くスピード豊かな名種牡馬であり、トウショウボーイやサクラユタカオー、テスコガビーなどスピード自慢の活躍馬を多く輩出。日本で通算4回もリーディングサイアーになった。しかも、日高軽種馬農業協同組合所有のため種付け料が安く、中小の牧場から大人気だった。

 そんな偉大な父を持つテスコパールだったのだが、幼駒時代に原因不明の病気にかかり、一時は命の危機に陥る。その後何とか回復し、競走馬としてはデビューできなかったものの繁殖牝馬として馬生をまっとうした。ちなみに彼女が所属予定だったのは、息子のアイネスフウジンと同じ加藤修甫厩舎である。

 テスコパールはとても仔出しがよく、初仔から13年で14頭の仔(双子含む)を産むという記録を残した。最終的には16頭の仔を産んでいる。

 アイネスフウジンは両親の特徴を受け継ぎ、豊かなスピードとスタミナを利用した逃げ戦法で活躍していく。圧倒的なスタミナを背景に、ハイスピードを維持してほかの馬をふるい落とすという恐怖の戦術である。残念ながら故障のため日本ダービーを最後に引退することになったアイネスフウジンだったが、菊花賞や天皇賞など長距離戦ではどうだったのだろうか……?

アイネスフウジンの現役時代(表記は現在のものに統一)

その日、20万人もの大観客が見つめる中、ゲートは開いた。
ダービーを逃げて勝つのは難しい。しかし、桃色の勝負服の君は自分のやり方を変えたりしない。
他を出し抜いてやろう、なんて逃げじゃない。臨んだのはハイペースな消耗戦。
迫るライバルを振り切ってゴール板を駆け抜けた時、全てを出し尽くした体にはただの1歩分の気力も残っていなかった。
それは君の勝利のための、たった1つの冴えたやり方。
勝者の名は、アイネスフウジン。
その日、府中のターフに響き渡った歓声は全てのファンの脳裏に今もなお響き渡っている――

出典:『ウマ娘』メインストーリー第3章より

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介
印象的なこの言い回し。SFの名著『たったひとつの冴えたやりかた』を思い起こさせる。

2歳(ジュニア級:1989年)

 冠名の“アイネス”+“風神”、すなわち“アイネスフウジン”と名付けられた彼は、幼駒時代から雄大な馬体と動きが評判を呼び、縁あって母が所属予定だった加藤修甫厩舎に入ることとなった。

 主戦は全8戦で手綱を執った中野栄治騎手(現調教師)。騎乗姿勢の美しさで知られた中野騎手はこの年、デビュー19年目を迎えていた。しかし加齢にともなう減量苦に悩まされ、勝ち星も伸びずに引退の2文字が頭をよぎったという。そんな彼に、加藤師が白羽の矢を立てたのだった。

 アイネスフウジンのデビューは9月10日、中山競馬場芝1600メートルの新馬戦。まだ馬体の完成度も荒削りで、中野騎手はまずはスタートをそっと出すことだけを考えて騎乗した。レースは逃げた馬を追走するも、まったく伸びずに脚を余して2着に敗れる。中2週空けた同条件の2戦目は、道中で先頭に立つも重馬場もたたってか最後に差されてまたもや2着。

 しかし中野騎手はイメージ通りの騎乗ができたことで自信を深め、3戦目に未勝利戦ではなく格上挑戦で1勝クラスのレースに出走させたいと進言していた。結果として冒険はしなかったものの、未勝利戦できっちりと逃げ切って初勝利を挙げる。

 そして4戦目。今度こそ中野騎手の進言が通り、強気の挑戦が実現する。GI“朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)”への出走である。関東の有力馬が集ったこのレースで、3戦1勝、重賞初挑戦のアイネスフウジンは単勝5番人気というそこそこの評価だった。

 スタートこそまずまずだったアイネスフウジンだが、2番人気で重賞を含む3連勝中だったサクラサエズリに追いつくと、併走しながら3番手以下を引き離して逃げ始める。アイネスフウジンの前半1000メートル通過はなんと57秒0。コースは中山と京都で異なるが、同年のオグリキャップが勝ったGIマイルチャンピオンシップで58秒7である。つまり、アイネスフウジンはとんでもないハイペースで逃げていたのだ。

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

 そのまま緩めずに逃げ続けるアイネスフウジンに対し、残り150メートルでついにサクラサエズリが付いていけずに脱落する。最終的に2馬身半差をつけて走破したそのタイムは1分34秒4。13年前のこのレースでマルゼンスキーが刻み、“不滅”とさえ言われた記録に並ぶ数字だった。

 歴史的快走を見せたアイネスフウジンは、JRA賞最優秀3歳牡馬(当時)を獲得。一躍クラシック候補として名乗りを上げ“零歳牧場の星”として輝き始めるのだった。

3歳(クラシック級:1990年)

 年明け初戦は2月の雨降る東京競馬場でのGIII共同通信杯。8頭の少頭数ということもあって、控える競馬をさせようと目論んでいた中野騎手だったが、スタートから誰も付いてこられずにあっさり逃げ切ってしまう。ここは能力が違ったか。

 翌月、クラシック前哨戦の弥生賞は雨ではなかったものの、不良馬場で行われることとなった。いつものようにハナを切って逃げるも、ケガのリスクを避けてドロドロのインコースではなく、アウトコースを進んだロスもあってか、メジロライアンらに差し切られて4着に敗れてしまう。しかし、抜かれる際に抜き返そうとする意地のあるところを見せるなど、内容は満足いくものだった。

 そしていよいよクラシック本番の皐月賞である。下馬評では、GI馬アイネスフウジン、弥生賞に勝ったメジロライアン、そして元祖アイドルホース・ハイセイコーの仔で5連勝中のハクタイセイの“3強対決”と目されていた。

 しかしレースは意外な展開になる。逃げ宣言をしていたアイネスフウジンだったが、スタート直後に他馬から不利を受けてしまい、スタートダッシュがつかずに2番手からレースを進めることになってしまったのだ。しかもその後もペースが上がらない。前半1000メートルの通過は、先頭のフタバアサカゼで60秒2もかかる“ややスロー”だった。

 最後の切れ味がないアイネスフウジンにとって、スローペースは致命傷である。やむを得ずみずから動いて先頭に立ったが、セーフティーリードは築けず、最後は外から迫り来るハクタイセイにクビ差で競り負けて2着に終わった。もう1頭のライバル、メジロライアンはエンジンのかかりが遅く、アイネスフウジンからさらに1と4分の3馬身差の3着となっている。

 スタート直後の不利があったとは言え、アイネスフウジンの能力が十分に発揮されていれば勝てたレースではなかったかと、中野騎手を責め降板を求める声も上がっていたというが、加藤師は中野騎手を信頼してコンビ続投を決定。日本ダービーでの捲土重来を誓うのだった。

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

 皐月賞の消耗は思ったよりも大きかったが、わずかながら休養を挟んで復調する。人気面ではメジロライアンとハクタイセイに前を譲り、3番人気となった。弥生賞と皐月賞の連敗が影響したか。

 その評価には鞍上も少し影響していたかもしれない。20年目、37歳のベテラン中野騎手に対し、メジロライアンの横山典弘騎手は5年目の22歳。ハクタイセイの武豊騎手は4年目の21歳である。若者を応援する声がなかったとは言い切れない。

 賢明な『ウマ娘』のトレーナー諸君は似たような状況を見た記憶があるだろう。このレースから9年後、1999年の日本ダービーである。30歳のアドマイヤベガ武豊騎手に対し、21歳のテイエムオペラオー和田竜二騎手、24歳のナリタトップロード渡辺薫彦騎手という構図。そしてこのレースでは、武豊騎手が円熟の手綱さばきでアドマイヤベガを勝利に導く結果となった(走破タイムもアイネスフウジンと同じ2分25秒3のレースレコードタイ)。

※関連記事

 果たして、9年前の1990年の日本ダービーでもベテランが経験と技術を余すところなく発揮し、若者たちを退けたのである。

 22頭立てのほぼ真ん中となる12番からスタートを決め、内側から進出しようとする馬を制して先頭で第1コーナーに突入したアイネスフウジン。そのままペースを緩めず4、5馬身ほどのリードを保ったまま飛ばし続ける。そして向こう正面に入ると、ややコース取りを外側に変えていく。

 じつは前日にほかのレースで騎乗した際、思ったよりも向こう正面~3コーナーの内側の馬場が荒れていることに気づいたのだという。そこを通って消耗させるよりも、あえてコースロスをしてでも馬の負担を減らして勝負しようという作戦に出たのだ。

 そこで少しペースが落ちたため、2番手以降との差はグッと詰まることとなったが、馬場が荒れていない4コーナーで再びインコースに戻り、万全の体制で最後の直線に入る。かまわず荒れた馬場を通った他馬たちは、その影響もあったのか伸びず、坂を上がりきったところではもう、アイネスフウジンの独走状態になっていた。

 しかしまだ終わらない。大外から脅威のパワーを誇るメジロライアンがすさまじい勢いで突っ込んできたのだ。みるみるうちにリードが縮まっていく……。ゴールがあと100メートル先にあったら勝負はわからなかったが、2400メートルのこのレースはアイネスフウジンの完勝に終わった。タイムは2分25秒3のレースレコード。レース後には「3コーナーでやられたと思った」という声もあったという。

 ゴール後につまづくなど、まさに死力を振り絞ったという体のアイネスフウジン。この日東京競馬場に詰めかけた19万6517人もの観客は、キャンター(駈足)さえままならず、ゆっくりと馬場を去ろうとするその姿から目を離せずにいた。そしていつしか手拍子が始まり、「ナ・カ・ノ! ナ・カ・ノ!」というコールが沸き起こる。コールはだんだんと広がっていき、やがてスタンド全体に響き渡っていったのである。

 相棒を信じて知力と技術の限りを尽くした中野騎手と、それに応えたアイネスフウジン。彼らを讃える“ナカノコール”は、それまで公営の“ギャンブル”というイメージから脱却できずにいた競馬が“スポーツ”と認められた歴史的な瞬間だったと言われている。なお、この日の入場者数はいまも歴代最多記録として残っている。

 アイネスフウジンは左前脚に屈腱炎を発症していることがレース後に判明。復帰を目指すもかなわず、菊花賞を前に現役引退が決まる。デビューからちょうど1年、わずか8戦という現役生活だった。

 通算8戦4勝、重賞3勝(うちGI2勝、GIII1勝)、総獲得賞金約2億3千万円。GIを勝ち、レコードタイムを記録したことで歴史に名を刻み、そして競馬をギャンブルからスポーツに変えたという新たな歴史を築いた、現代競馬の先駆者だった。

【ウマ娘・元ネタ解説】アイネスフウジンのダービーが競馬をスポーツたらしめた。食へのこだわりや妹の存在などのエピソードを紹介

アイネスフウジンの引退後

 引退後は種牡馬入りするも、しばらく鳴かず飛ばずの状態が続いたため21世紀を前にして種牡馬引退の話が出てきてしまう。そんな瀬戸際の2000年にファストフレンドが交流GIで2勝を挙げ、それが評価され一転して続行が決まる。そのファストフレンドを管理していたのは、かつて助手としてアイネスフウジンの調教を担当していた高市圭二調教師だった。

 しかしその後ほどなくして、2004年4月5日に腸捻転のため17歳で亡くなった。1996年に調教師に転身していた中野栄治騎手は、2007年のジョッキーマスターズにアイネスの勝負服を着用して参加。ひさびさに競馬ファンにアイネスフウジンを思い出させていた。

『ウマ娘』注目記事

『ウマ娘』無課金&微課金の方向け、育成攻略&解説シリーズ