サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2021年12月22日に新たな育成ウマ娘“タマモクロス”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のタマモクロス

公式プロフィール

●声:大空直美
●誕生日:5月23日
●身長:140センチ
●体重:計測不能
●スリーサイズ:B71、W52、H73

関西弁バリバリのチビっ娘。身体こそ小さいがまさに気力の塊で、日常でもレースでも隙あらばツッコんでくる。
金銭的に恵まれない環境で育ったが、それを理由に負けてたまるかと奮起し続けるハングリー精神がパワーの源。
ボケ担当のオグリキャップとはいいコンビ。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

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タマモクロスの人となり

「完膚なきまでに叩き潰したるさかい 覚悟しとき」(『ウマ娘 シンデレラグレイ』より)

 コテコテの関西ウマ娘。小柄ながらエネルギッシュで、トレセン学園を代表するツッコミマスターでもある。ゲームでも「なんでやねん!」、「行くで~!」、「さぁ、ウチとやろうや!」といった切れ味鋭い関西弁ボイスが耳に残っている人も多いことだろう。

 じつは高等部在籍のお姉さんなのだが、見た目のせいか後輩たちにも年下に見られてしまうことが多いのが悩みのタネ。一方で世話焼きで“オカン”的な面もあり、天然すぎるオグリキャップの面倒をよく見ている。そのオグリとは栗東寮のルームメイトで、体のサイズだけでなく、ツッコミとボケ、小食と大食いなど何かと好対照な名コンビになっている。

 また、スーパークリーク、イナリワンの“平成三強”のふたりとも仲のいい友だち。オグリ、スーパークリークとはテレビアニメSeason1の“ファン大感謝祭”での“第33回大食いグランプリ”にて司会イナリワンのもと死闘をくり広げた。その顛末と元ネタはオグリキャップの記事を参照のこと。もっとも、リアルではそれほど対戦経験はなかったりもする(オグリは3回、スーパークリークは1回、イナリワンは0回)。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 ほかにも後輩(リアルでは同い年)のゴールドシチーとの絡みも多く、ゴールドシチーの育成シナリオではライバルとして立ちはだかっている(なお、リアルでは3戦してタマモクロスの全勝)。さらに『ウマ娘』ではリアルでの1984~1985年生まれ世代が多く登場しており、オグリキャップを中心としたその世代の活躍を描くコミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』では、ゲームに先立ってサクラチヨノオー、メジロアルダン、ヤエノムテキ、バンブーメモリーたちとの物語も描かれている。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 勝負服やウマミミカバー、カチューシャ、ベルトのカラーリングは、リアルでの勝負服(水色地、赤二本輪、赤袖)やメンコのそれが反映されている。また、胸の白いイナズママークも同様にリアルでの異名“白い稲妻(※)”からだと思われる。両腕にはそれぞれ“疾風”、“迅雷”と書かれた腕章をしている。

※“白い稲妻”はもともと父シービークロスの異名だったが、タマモクロスも同じ異名、もしくは“稲妻二世”と呼ばれていた。

タマモクロスの能力

 競走馬のタマモクロスが芝の中距離~長距離で活躍したこともあり、適性は芝A、中距離A、長距離Aとなっている。また戦法は先行、差し、追込がA。これも、変幻自在の戦法を見せたことがその由来だ。成長率がスタミナ+20%、パワー+10%であることから、『ウマ娘』では長距離レースに向いているだろう。

 固有スキル“白い稲妻、見せたるで!”は、「レース後半の直線で好位置にいる、または中団から前を狙うと、稲妻の如く駆けて行く」という能力。

 レアスキルは、サポカSSRタマモクロス(スタミナ)も持つ“迅速果断”と、尻尾上がりの上位である“尻尾の滝登り”を備える。 “直線一気”もあるので、長距離レースのときなどは、追込戦法を取るのもおもしろいかもしれない。

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競走馬のタマモクロス

タマモクロスの生い立ち

 1984年5月23日、北海道新冠郡新冠町の錦野牧場にて生まれる。父はシービークロス(その父フォルティノ)、母はグリーンシャトー(その父シャトーゲイ)。ひとつ下の妹にエリザベス女王杯を勝ったミヤマポピー(父カブラヤオー)がいる。後述するが、生まれ故郷の錦野牧場は経営不振によりタマモクロスがデビューしてわずか数ヵ月後に破産、閉鎖されてしまう。貧乏な家庭に育ち、ハングリー精神に溢れているというキャラクターは、そんなエピソードが影響していると思われる。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 名前の由来は、オーナーである三野道夫氏の出身地、香川県高松市にある高松城の別名“玉藻”城+父シービー“クロス”から。じつは三野氏はもともとタマモのオーナーではなかった。もとのオーナーが馬主業から撤退するということで、その知人の三野氏がきょうだいたちとともにタマモを引き取ったのだそうだ。

 生まれつき神経質な馬で、ちょっとしたことですぐストレスを感じて食欲を減退させていた。そのせいか、なかなか身体が大きくならず、稽古も積めずにデビューも遅れる。輸送にも弱かった。小さく痩せていたうえ、当時は「芦毛の馬は走らない」と言われていたこともあり、期待はあまりされていなかったようだ。

 痩せてはいたが、脚は長かった。また、オグリ同様に抜群の心肺機能を有していたようで、それらが後に大躍進につながっていく。ラストスパートを長く続けられるのが持ち味で、先行~追込まで脚質はほぼ自在とも言えるものだった。そんな特徴は先行、差し、追込の3つが適性A、という形で反映されている。生涯で逃げ~追込までくまなく実行していることから、サポカのスキルもさまざまな脚質のものが入るという結果になっているのだろう。

 走法はもともと“頭が高い”と言われるものだったが、3歳秋ごろの本格化とともに深く沈み込むようなものに変化している。『ウマ娘 シンデレラグレイ』ではその特徴をよく捉えた描写がされているので、興味を持った方はぜひ読んで見てほしい。

 コミック繋がりでネタをもうひとつ。タマモはその劇的な生い立ちから、人気コミック『みどりのマキバオー』の主人公、ミドリマキバオーのモデルとなったと言われている。

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タマモクロスの血統

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 父シービークロスは、現役時代GIタイトルには届かなかったものの、中長距離路線を進み豪快な追込作戦で“白い稲妻”と呼ばれ人気を博したスターホースだった。しかし当時、内国産馬の種牡馬はまったく人気がなく、錦野牧場などが手を挙げてシンジケートを組むが、有力どころの繁殖牝馬からのオファーは来なかった。

 一方、母グリーンシャトーは現役時代、重賞こそ縁がなかったものの条件戦を堅実に走り通算6勝を挙げている。タマモクロスの“神経質だが勝負根性に優れている”という特徴は、この母から受け継がれたものなのだろう。

 両親ともに当時の評価としてはいまひとつといったところで、タマモクロスのデビュー前の評価は中長距離なら多少は走るかな、という程度だったようだ。牧場は破産、血統はほぼ無名。しかしそんなどん底の状況から、タマモは己の力で道を切り拓いていくのである。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 なお、父シービークロスは産駒こそ少なかったものの、初年度産駒のタマモクロスに始まり、重賞を3勝するホワイトストーンなど、有力馬が次々と登場し、一躍種牡馬としての評価を高めていくことになる。病気で急死しなければ、もしかしたら現代にももう少しその血統を残せていたかもしれない。

タマモクロスの現役生活(表記は現在のものに統一)

「芦毛と芦毛の一騎打ち。宿敵が強さをくれる。
 風か光か。その馬の名は……」(2012年JRA天皇賞(秋)CMより)

2歳(ジュニア級:1986年)

 タマモクロスの所属は栗東の小原伊佐美厩舎。もともと馬格が小さかったうえ、神経質で食が細かったためトレーニングが思うように積めなかったこともあり、2歳(ジュニア級)でのデビューは見送られた。

3歳(クラシック級:1987年)

 新馬戦開催も最終月に入った3月1日、阪神競馬場2000メートルの新馬戦でようやくデビューを迎えたタマモ。クラシックを狙うには大きすぎる出遅れだ。なお、このときの馬体重は456キロ。これ以降も馬体は大きく成長することがなく、デビュー戦が競走馬生活最高体重となる。

 小柄でやせ形と、見た目はあまり強そうに見えないタマモだったが、それでも父シービークロスの実績から長い距離への適性があると見られていたのか、単勝2番人気に推された。レースは好スタートから逃げを打つも、最後の直線で失速して7着という結果に。1着からは1秒8もの大差をつけられており、この時点では、後に8連勝で年度代表馬に輝く馬にはとても見えなかった。

 陣営はさすがにスピード不足と思ったのか、2戦目からはダートに転向。4着とまずまずのレースを見せると、3戦目でようやく初勝利を挙げる。関係者も胸をなで下ろしたが、芝に戻った次戦では、なんと落馬事故に巻き込まれて競走中止となってしまう。幸いにもケガはたいしたことがなくすぐに復帰。しかし、精神的なダメージを負ってしまったようで、しばらくは馬込みを嫌がって走るようになり、成績も低迷する。

 悪いことは続くもので、このタイミングで生まれ故郷の錦野牧場が経営不振から閉鎖されることに。母のグリーンシャトーも借金のカタに二束三文で売り飛ばされ、文字通り一家離散の憂き目に遭うのだった。

 そんな中、主戦の南井克己騎手から「そろそろ芝を使ってみましょう」という進言があり、もう一度芝コースに挑むこととなった。すると、好スタートから2着に7馬身、1秒2もの差をつける圧勝を飾る。9戦目にして、ついに才能が開花。伝説の8連勝が幕を開けた。

 さらに続く藤森特別でも8馬身差の圧勝。マスコミも「すわ、菊花賞の秘密兵器か」とざわめき出した。

 しかしトレーナーの小原師は「ここでムリをしたら、ただでさえ身体が弱いのに壊れてしまう」と菊花賞は狙わず、当時12月開催で芝2500メートルの長距離だったハンデ戦のGIII鳴尾記念に歩を進めることに。タマモクロスはまだ賞金的に格下だが、鳴尾記念では実績に応じてハンデキャップがつけられるので、負担もそこまで大きくはないという計算だ。

 そして見事、ダービー4着の1番人気ゴールドシチーや前年の菊花賞を勝ったメジロデュレン(メジロマックイーンの兄)を破り、3連勝で重賞初挑戦初勝利を果たすのである。またこのレースでは南井騎手がそれまでの先行策を捨てて、後方一気の追込策を採用。父シービークロスを彷彿とさせる斬れ味で2着メイショウエイカンに6馬身差をつけ勝利し、“稲妻二世”と呼ばれるようになった。落馬事故以来の馬込み恐怖症も克服され、さらなる快進撃へと繋がっていく。

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4歳(シニア級:1988年)

 少しでも楽なローテーションにすべく、日程も相手もきびしい有馬記念をパスしたタマモは、オーナーサイドの希望もあり新年初重賞であるGIII京都金杯に出走。こちらもハンデ戦だったが、前走の鳴尾記念を勝ったことで斤量は53キロ(やや軽ハンデ)から56キロ(ほぼハンデなし)にアップ。そんな負担増もなんのその、最後方から直線でインを突いて猛然と突き抜け勝利。直線だけで15頭をかわしきる、とてつもないインパクトを残していった。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介
“15人抜き”のエピソード。

 続いては天皇賞(春)の前哨戦でもあるGII阪神大賞典。レースは超スローペースとなり、差し馬にはきびしい展開になった。しかしタマモの強さは、自分でレースを動かせる自在性と、パワー、根性である。前目のポジションを進み、直線では前にできた壁をこじ開け、同着での1着を奪取。ゴール前、執念で鼻先をねじ込んで同着をもぎ取った泥臭いド根性ぶりも、競馬ファンを驚かせていた。

 14戦目でついにたどり着いたGIの舞台。京都芝3200メートルの天皇賞(春)で、タマモはその強さを存分に見せ付ける。まずまずのスタートを決めて定位置の後方ポジションに収まり、ロスの少ない最内を進みながらじっくりライバルたちの動向を観察。最終コーナーの立ち上がりでも最内をキープし、スピードに乗ってアウトコースに膨らんでいく他馬をかわしつつ一気に抜け出す。消耗が大きい稍重のヌメった馬場も気にせず、0秒5、3馬身差の完勝で初GIを制したのである。

 オーナーの三野氏は馬主生活50年、87歳で、トレーナーの小原師は騎手時代から数えて26年、鞍上の南井騎手は18年目にしてGI初勝利(※)といううれしい勝利となった。なお、南井騎手はタマモクロスでの勝利後は枷が外れたかのように勝ちまくり、約10年でナリタブライアンやマチカネフクキタル、サイレンススズカなどでGI・16勝を挙げている。本人も「タマモクロスのような騎手人生だった」と後に語っていた。

※グレード制ができたのは1984年以降で、それ以前についてはGI級と認識された“八大競走(春秋の天皇賞、有馬記念、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス)”でカウントしている。

1988年 天皇賞(春)(GⅠ) | タマモクロス | JRA公式

 宝塚記念では、前年の天皇賞(秋)とマイルチャンピオンシップ、そしてこの年の安田記念を制しマイル~中距離路線ではナンバーワンと見られていたニッポーテイオーと最初で最後のマッチアップ。1番人気はニッポーテイオー、それほど差のない2番人気が長距離王者タマモクロスとなった。タマモは相変わらず飼葉食いが悪く、さらに当日はまたしても馬場が稍重と渋り、そのことで不安視する向きもあったようだ。

 レースは2番手につけたニッポーテイオーが直線で抜け出し、逃げ切りを図るという勝ちパターンに持ち込む。しかし早めに前に進出してきたタマモは、直線半ばでニッポーテイオーを捉えた。とんでもない勝負根性を持つタマモに馬体を併せられては勝負あり。着差以上の完敗を喫したニッポーテイオーは、このレースで引退を決めるのだった。

1988年 宝塚記念(GⅠ) | タマモクロス | JRA公式

 7連勝、重賞5連勝、GI・2連勝。デビュー後に苦しんでいた姿はいまはなく、それどころか関西、いや日本の競馬界を背負って立つ存在となった。

 そんなタマモが次戦に選んだのは天皇賞(秋)。秋は天皇賞(秋)→ジャパンカップ→有馬記念というローテーションが決まっていて、できるかぎり消耗を避けるためにステップレースを使わず直行することにしたのだ。

 そして、ニッポーテイオーに代わってもう1頭の“怪物”が西から台頭してくる。菊花賞に出走できず、3歳ながら天皇賞(秋)を狙ってきたオグリキャップ。毎日王冠で強豪を蹴散らし強さを見せたオグリに、陣営も最大級の警戒をしていた。

 レースは驚きの展開となる。勢いよく飛び出し、逃げていくレジェンドテイオー。その後ろにつけていたのは……なんとタマモだった。南井騎手は5月の京都4歳特別でオグリの騎乗経験があり、その強さを肌で感じていたのだろう。末脚勝負ではなく、タマモが誇る史上最高の勝負根性が活きる展開に持ち込もうとしたのだ。オグリに騎乗していた河内洋騎手は「最後は(タマモの脚が)止まる」と思っていたそうだが、タマモの脚が止まることはなかった。怪物オグリを退け、史上初となる天皇賞春秋連覇の偉業を成し遂げたのである。

オグリキャップとの“芦毛頂上決戦”制し史上初の春秋制覇【天皇賞・秋1988】

 なお、天皇賞(秋)の2週間後のエリザベス女王杯では、タマモよりもさらに小柄だった妹ミヤマポピーが見事に勝利を収めている。前年の5月に経営難から閉業となった錦野牧場だが、この2頭の活躍で1988年の獲得賞金額では何と全牧場中3位に入っている。せめてあと半年持っていれば……というのは詮ない話か。

 タマモはこの後、予定通りジャパンカップへ。凱旋門賞馬トニービンなど世界の強豪が集ったこのレースで、単勝1番人気に支持される。そして今回こそ力勝負と後方から進出し、直線でライバルの外国馬ペイザバトラーに馬体を併せに行くが……。

 タマモに肩すかしを食わせるように、ペイザバトラーはスッと内側に切れ込む。距離を空けられたタマモは、勝負根性を最大限に発揮できず、差を詰められない。けっきょく、オグリの追撃こそかわしきったものの、半馬身差の2着に惜敗。約14ヵ月ぶりの黒星を喫するのだった。

 勝ったペイザバトラーの鞍上、クリス・マッキャロン騎手はタマモ、オグリの2頭を研究し尽くしており、最後の直線でタマモを避けたのはその能力を発揮させないための秘策だったのだ。斜行スレスレ、レース後には戒告処分になるほどの際どい騎乗だったが、マッキャロン騎手が上手だったということなのだろう。

 また、ジャパンカップ後にはタマモが年内で引退することが発表された。まだ4歳、引退を惜しむ声は多かったが、身体の弱いタマモの将来を考えたオーナーが決断を下したという。

 天皇賞(秋)、ジャパンカップに続く“芦毛対決最終章”となった有馬記念。かつては「芦毛の馬は走らない」と言われたが、そんな芦毛の2頭が競馬界の頂点を争うこのレースには、スーパークリークやサッカーボーイといった強豪も集っていた。彼らは皆、オグリをきっかけに流行した競走馬ぬいぐるみのモデルたちである。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 社会現象にまでなった昭和最後の有馬記念は、スタートでタマモとサッカーボーイが出遅れる。南井騎手はやむなく最後方待機策を採ろうとするが、今度はかかり気味になってジタバタしだしてしまう。そこでの消耗がたたったか、最後の直線でのオグリとの追い比べで、半馬身差が詰まらない。3度目の対決にして、初めてオグリに敗れることとなった。

 連戦の疲れに加え、慣れない美浦滞在でさらに消耗していたタマモと、同様の環境にいながら寝ワラまでもムシャムシャ食べる図太さで馬体を維持していたオグリ。最後にはその性格の差が出たのかもしれない。

1988年 有馬記念(GⅠ) | オグリキャップ | JRA公式

 条件戦を脱出するのに11戦もかかったタマモだが、1988年は7戦5勝2着2回、全戦重賞に出走し全連対という大記録を達成。生涯でも18戦9勝、GI・3勝、獲得賞金約4億9千万円という立派な戦績を残している。そして記録以上に、みずから仕掛けてレースを動かす積極性、豪快なまくりで、記憶にも鮮烈に残るスターホースだった。オグリとともに、昭和の最後と平成の最初を彩った“芦毛の時代”は、この先も競馬史に語り継がれることだろう。

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タマモクロスの引退後

 オグリを抑えて1988年度の年度代表馬に選出されたタマモ。1989年1月15日に京都競馬場で引退式が行われ、同年の春から種牡馬としてアロースタッドに活動の場を移した。引退後は穏やかになる馬もいるが、タマモにはまったくそんな様子はなく、いつまでも乱暴者だったという。放牧地には「近寄るな」と書かれた板が設置されていたほどだ。

 種牡馬としては優秀で、重賞勝ち馬をコンスタントに輩出し、後継種牡馬も登場するなどサンデーサイレンス旋風の中そこそこの成績を残していた。しかし、2003年に母と同じ腸捻転をわずらい、19歳で死去している。現在は北海道日高郡新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)内に墓碑が建てられている。

【ウマ娘】タマモクロスは間違いなく一時代を築いた絶対王者だった。生まれ故郷の解散や衝撃の事故を乗り越えた現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

著者近況:ギャルソン屋城

 リアル競馬&競馬ゲームファンでもある、週刊ファミ通『ウマ娘』担当ライター。誕生日:9月5日、身長:168センチ、体重:続伸(ミートテックがだんだんゴージャスに)。

 3回目の200連ガチャチャレンジ。過去400連で新規★3育成ウマ娘がひとりしか出なかったことから、今回ダメなら引退も覚悟していたが見事に7人も登場(+ファインモーション)し、上機嫌で現役続行を決めるのだった。累計課金額は8820円。

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