サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年9月12日に新たな育成ウマ娘“星3 [めんこいめんこいむつのはな]ユキノビジン”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のユキノビジン

公式プロフィール

  • 声:山本希望
  • 誕生日:3月10日
  • 身長:156センチ
  • 体重:増減なし
  • スリーサイズ:B80、W55、H80

岩手の田舎出身の純朴な娘。実家は農家で、よく手伝いをするいい子だった。
その一方、都会に憧れ、いつかトゥインクル・シリーズに出て、キラキラな自分になりたいと望んでいた。
素直だがひ弱ではなく、北国育ちのド根性持ち。
憧れのウマ娘はゴールドシチー。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

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ユキノビジンの人となり

「チンクルシリーズさ出てめんこいシチーガールになりてぇ!」

 標準語をしゃべっているつもりでも抜けきらない方言、流行りに流されない独自のスタイルなど、地方出身者が持つ素朴な魅力に溢れたピュアガール。基本的には“いい子”だが、都会のウマ娘には対抗心があるようだ。

 岩手出身という設定は、モデル馬が岩手競馬でデビューし、その後中央に転厩したというエピソードからだろう。アニメでも『BNWの誓い』のファン感謝祭で、岩手のご当地物産店を開いていた(その後、同じ地方出身のオグリキャップの大食いチャレンジで給仕係をしていた)。

 同室はマンハッタンカフェ。イメージカラーが白と黒で好対照なふたりには、それぞれのモデル馬のあいだに子どもが生まれている(未出走)という関係がある。

 プロフィールにもあるように、“シチーガール”の象徴としてゴールドシチーに憧れを抱いている。ゴールドシチーのほうもユキノビジンの飾らない純朴さが気になっているようだ。

 同様に“いんふるえんさぁ”カレンチャンも憧れの存在。イベント“晩秋、囃子響きたる”では、ユキノビジンとゴールドシチー、カレンチャンの3人が奉納舞の踊り手に選ばれ、ほほえましいやり取りを見せてくれる。同イベントはユキノビジンが百面相のようにコロコロと表情を変えるさまや、入浴シーンなど見どころは多い。

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 ちなみに、モデル馬の同期(1990年生まれ)にはビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケットの“BNW”がいる。ほかにもアドマイヤベガの母であるベガなども同い年。BNWとは現役時代に戦う機会は訪れなかったが、果たして……。

 現役時代は“栗毛の美少女”と呼ばれ人気を博していたモデル馬同様、ウマ娘のユキノビジンも綺麗な栗毛が特徴。トレードマークの白いメンコはカチューシャに、ワタリ(馬のたてがみを縛る、毛糸の先にボンボンをつけたもの)で縛ったたてがみは“編み込み”の形で反映されている。

 勝負服は丈の短いダッフルコートにマフラー、ニーハイと、冬場の女子高生スタイル。ふだんは下にジャージをはきながらも都会に出てきたら生足を見せてやる、という雪国女子の意地が出ている……のか。また、白のニーハイはモデル馬の後脚の先が白かったということも関係あるかもしれない。

競走馬のユキノビジン

ユキノビジンの生い立ち、特徴

 1990年3月10日、北海道新冠町の村田牧場で生まれる。父はサクラユタカオー、母はファティマ。近親からはとくに活躍馬は出ていない。

 父と同じツヤッツヤの栗毛で、均整の取れた体型、三白流星(脚3本に白い模様、額に流星の模様)、デビュー後は白いワタリで編み込まれたたてがみと、その美少女ぶりは大いに注目を浴び、とくに女性ファンから人気を集めていた。

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 気性はそれなりに荒かったようだが、厩舎の壁に穴を開けたとか、吹雪の中30分も立ち止まったとか、ゲートの中で立ち上がって約120億円もの馬券を一瞬で紙くずに変えたとか、そういった極端なエピソードは聞こえてこない。いわゆる闘争心の表れというところだろうか。

 体格は牝馬としては標準サイズの460キロ台。とくに馬体重は、全戦で460キロ~468キロで収まっており、増減幅も最大で4キロと安定していた。ウマ娘でのプロフィールが“増減なし”とされているのも納得である。一方、繁殖馬時代に蹄や脚の痛みに悩まされていたように、脚元はそれほど強くなかったようだ。

 脚質は先行タイプ。好位につけて押し切る、王道の展開を得意としていた。

ユキノビジンの血統

ユキノビジン血統表

 父サクラユタカオーは、重馬場には弱かったが、天皇賞(秋)を始め中距離戦線で3度のレコード勝利を飾るなど12戦6勝(重賞4勝)の成績を残した快足馬。種牡馬としてもサクラバクシンオー、エアジハードを始め4頭のGI馬(障害も含めれば5頭)を輩出するなど、一流の評価を受けていた。

 サポートカードのイベントではサクラバクシンオーとの絡みがあるが、父が同じという共通点から生まれたものではないかと言われている。

 産駒の多くは父の豊かなスピードを受け継ぎ、短距離~マイルを中心に活躍。サクラバクシンオーが花開いた1994年にはリーディング5位となっている。一方、サクラキャンドルやウメノファイバーなど2400メートルのGI勝ち馬も出ているように、底力も備えていた。また、かなり大柄で馬体重は530キロを超えたこともあり、天皇賞(秋)を勝ったときも528キロもあった。

 母ファティマは現役時代5戦1勝。2歳の夏にデビューし、秋の未勝利戦勝利を最後に引退、繁殖牝馬となった。とても仔出しがよく、17年間で16頭もの仔を産んでいる。ユキノビジンは4番目の仔である。ちなみに、ファティマの母(ユキノビジンの祖母)ビューティワンは道営競馬で14勝を挙げた女傑であった。

 ユキノビジンはマイル~中距離戦線で活躍したが、能力は父から多くを受け継いだようだ。牧場では、祖父テスコボーイから続く血統や父譲りの肉付きのよさから、大いに活躍してくれるだろうと期待していたという。

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ユキノビジンの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2歳(ジュニア級:1992年)

 ユキノビジンはもともと中央競馬でデビューする予定だったが、なんと入厩を予定していた久保田敏夫厩舎の馬房に空きがないという事態に。当時はまだかなり景気がよく、馬房数に上限がある中央競馬ではそんなトラブルが起こることもたまにあったのだ。

 そこで、オーナーが東北人ということもあり、馬房が空くまでという条件で岩手競馬でのデビューが決まる。

 8月10日、ダート850メートルの新馬戦に出走したユキノビジンは、他馬を寄せ付けることなく5馬身差の圧勝。さらに鞍上が岩手のトップジョッキー菅原勲騎手(現調教師)に変わってからも5馬身差、3馬身差と楽勝を重ねて昇級を決める。

 そして迎えた10月の南部駒賞では、前2戦の相棒だった菅原騎手が手綱を執るエビスサクラの5着に敗れるが、ここで予定通り中央への転厩が決定。4戦3勝の成績を残し、岩手を後にすることとなった。

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3歳(クラシック級:1993年)

 中央でのデビュー戦は、2月27日に中山競馬場で行われた芝1600メートルのオープン特別、クロッカスステークス(現在は東京競馬場で開催されているが、1998年までは中山開催。2019年よりリステッド競走に)。鞍上はいぶし銀のベテラン、安田富男騎手だった。

 4戦3勝とは言えすべてダートで、地方からの転厩ということもあって評価は低く、10頭立ての単勝9番人気に留まる。そんな空気を知ってか知らずか、レースでは果敢に先行して2番手からレースを進め、道中で先頭に立つとそのまま3馬身差をつけて逃げ切ることに成功。最後の600メートルは、逃げていたにも関わらずメンバー中最速だった。

 「これは本物だ」と評価は急上昇。さらなるステップレースを挟まずに直行した桜花賞では、単勝5番人気に支持される。そしてレースでは前に行きたい馬が数多く揃う中、先頭に躍り出た1番人気ベガ(武豊騎手騎乗)が巧みなペースメイクで脚を溜めながら最終コーナーへ。インコースはなかなか前が開けそうになく、ユキノビジンは外へ持ち出して仕掛ける。しかしインコースで逃げ込みを図るベガとはコース取りの差が出たか、クビ差およばず2着に終わった。

 このレースでも先行からメンバー最速の末脚を見せており、優勝こそ叶わなかったが、彼女の活躍はフロックではない、と競馬ファンに強く印象づけることとなった。また、オグリキャップと同じ地方出身という経歴や、美しい栗毛の毛並み、リボンを思わせる白いワタリなどの愛らしい外見も注目されるようになり、ファンも急増していく。

 そして距離は大きく延びて2400メートル、オークスでベガとの再戦が行われた。前走と同じ轍は踏まない、と今度はダッシュよく飛び出してインコースを抑え、ベガよりも前の3番手につけてレースを進める。大本命のベガも外枠スタートから徐々に進出し、ユキノビジンの右後ろにつけ、最終コーナーは並んで立ち上がっていく。

 残り400メートル、先に仕掛けたのはユキノビジンだった。体半分ベガの前に出ると、グングンスピードを上げていく。しかしきびしい坂をヨレながら必死に駆け上がるユキノビジンに対し、ベガのパワーは一段上を行っていた。ユキノビジンに馬体を合わせられても何のその、残り200メートルでかわし先頭に。何とか食らいつくユキノビジンだったが、残り100メートルで力尽き、最後は1+3/4馬身差をつけられて敗北。

 惜敗だが、人気はむしろ高まったユキノビジン。オークスの後には、とうとうぬいぐるみが販売されることとなった。GIどころか重賞勝ちさえもないのに。それほどまでのアイドルホースだったのだ。

 夏は休養を挟み、当時は10月に中山で開催されていた芝2000メートルのGIII、クイーンステークス(1996年より距離が1800メートルに、2000年から夏の札幌開催に変更される)へ出走。当時は牝馬クラシック最後の1冠に数えられていたエリザベス女王杯のトライアルレースでもあり、もうひとつのトライアル、関西のローズステークスとともにGIを狙う強豪たちが集まっていた。

 ここにはのちにダート戦線に転向してダート交流重賞を10連勝し“砂の女王”と呼ばれるようになるホクトベガも参戦していたが、雨降りしきる中、それらを一蹴して優勝。ついに初重賞制覇を飾るのだった。

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 その勢いを駆って臨むは牝馬クラシック3冠最後のひとつ(当時)、エリザベス女王杯である。1番人気は3連勝でローズステークスを制した“夏の上がり馬”スターバレリーナ(孫にGI3勝馬ロゴタイプ)。オークス後のアクシデントにより出走さえも危ぶまれていたベガが2番人気。鞍上が名手・岡部幸雄騎手に乗り替わったユキノビジンは、両馬と差のない3番人気であった。

 レースは8番人気のケイウーマンがハナを切って、グングンと差を広げていく。ユキノビジンはそこから少し離れて、1番人気のスターバレリーナとともに2番手集団につけた。ケイウーマンのペースはかなり速く、1000メートル通過は58秒2。2番手集団のユキノビジンらにとっても未知のハイペースだった。

 そしてここから波乱の展開が待っていた。最終コーナーを立ち上がり、内からノースフライト(この翌年に安田記念とマイルチャンピオンシップを勝つ)、外からユキノビジン、スターバレリーナ、ベガと人気どころが次々とスパートを開始するのだが、ノースフライトとベガはあまり伸びず、ユキノビジンとスターバレリーナにいたっては伸びるどころかズルズルと後退していったのである。

 1年間使い込まれて荒れた馬場のせいなのか、距離の壁か……。そんななか、終始最内の経済コースを通り、スパートもギリギリまで遅らせたホクトベガが一気に伸びてきた。残り100メートルでノースフライトを捉えると、そこからさらに突き放して1+1/2馬身差の勝利。2着にノースフライト、3着にはベガが粘りきったが、残る人気サイドのユキノビジンは10着、スターバレリーナは9着とともに惨敗に終わったのである。

 このときの関西テレビ馬場鉄志アナウンサーが実況した「ベガはベガでもホクトベガです!」という言葉は、それくらいホクトベガの勝利が衝撃的だったことを示している。

 不完全燃焼に終わったユキノビジンは、年末は有馬記念ではなく、当時オープン特別だったターコイズステークスへと向かう。このレースにはエリザベス女王杯で苦杯をなめさせられたホクトベガも出走していたのだが、GIを勝っているにも関わらず、ユキノビジンよりも軽いハンデを設定される(ユキノビジン56.5キロ、ホクトベガ56キロ)という不可解な事態となる。それでもなお、ユキノビジンが1番人気、ホクトベガが2番人気になっていたのだから、エリザベス女王杯の勝利はフロックと見る向きが多かったのだと思われる。

 反対に、ハンデキャッパーからもファンからも有力と思われていたユキノビジンは、その期待通りにレースを完勝する。中央に転厩して1年で6戦3勝、2着2回というのは上々の成績である。

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4歳(シニア級:1994年)

 しかし、その後は脚の骨折などもあって長くレースに出られない状態が続き、良化の見込みも立たないことから、9月に引退が決定、生まれ故郷の村田牧場で繁殖牝馬となった。

 生涯成績は通算10戦6勝、獲得賞金約1億8000万円。重賞は1勝ながら、桜花賞、オークスでのベガとの戦いは現在でも語り継がれる死闘であり、彼女の粘り強さが伝わる好レースだった。

ユキノビジンの引退後

 引退後は村田牧場で繁殖生活に入り、約15年で12頭(牡馬9頭、牝馬3頭)もの産駒を送り出した。2010年に繁殖牝馬も引退し、以降は功労馬として余生を過ごす。そして2016年7月、放牧中に老衰で亡くなった。26歳だった。

 いまのところ子孫から有力馬は出てきていないが、サクラユタカオー譲りのスピードと、粘り強い末脚を持った彼女の一族から、また新たなヒーロー、ヒロインが生まれてくることを祈ってやまない。

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