サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年6月10日に新たな育成ウマ娘“星3[稲荷所縁江戸紫]イナリワン”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のイナリワン

公式プロフィール

  • 声:井上遥乃
  • 誕生日:5月7日
  • 身長:139センチ
  • 体重:増減なし
  • スリーサイズ:B85、W51、74

いなせな江戸っ子ウマ娘。東京の下町で、おっちゃんたちと丁丁発止やりあい、駄菓子やベーゴマにまみれて育った。小さくて腕白で曲がったことは大嫌い。
ハレのレースで粋な走りを見せるが、空回りすると豪快に檜舞台から転げ落ちる。
好物はおいなりさん。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

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イナリワンの人となり

「てやんでい! 江戸っ子はな、宵越しの脚は残さねえんでい!」(『ウマ娘』公式プロフィールより)

 美浦寮所属。生粋の江戸っ子ウマ娘を自称しており、しゃべりかたも“べらんめえ”口調。しかしじつは江戸出身ではないらしく、タマモクロスに「大井は江戸ちゃうで!」とツッコまれている(※)。なお、「小さい」は禁句。

※大井は“江戸の玄関口”と呼ばれていた品川宿の少し手前にあり、江戸と呼ばれる地域にはギリギリ入っていなかった。

 作中ではオグリキャップ、スーパークリークとともに“永世三強”と呼ばれている(史実ではこの3頭が“平成三強”と呼ばれていた)。このふたりにタマモクロスを加え、お互いがよき友でありライバルという関係である。とくにタマモクロスとは東西を代表するツッコミ担当として火花を散らすことが多い。

 そのほか、サクラチヨノオーやメジロアルダンといったオグリキャップ世代のウマ娘たちの育成シナリオで姿が見られる。なお、史実ではタマモクロス、ゴールドシチーと同い年で、オグリキャップ世代は1歳下となっている。

 性格は江戸っ子らしく“せっかち”で、食事も早食いがモットー。なんとあのオグリキャップさんに早食い対決で勝利するほど。さらにレースでは血の気の多さが全面に出てきてしまうようで、コミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』では“チンピラ”、“ヤクザ娘”などと恐れられている。

 一方で面倒見がいい姉御肌でもあり、1コママンガでは火の用心の見回り中、グラスワンダーに段差があることを教えてあげていた。また、美浦寮ではツインターボと同室で、何かと手の掛かるターボを手慣れた感じでお世話している。

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 体格は小柄だが、出るところは出ている、いわゆるトランジスタグラマー。史実でも、周囲と比べてハッキリとわかるほど小さく、それでいてみっちりと筋肉の詰まった馬格が特徴的だった。髪型はツインテールで右耳側にキツネのお面をつけている。イラストでは、“イナリ(稲荷)”の名前からか手を“コンコンきつね”の形にしていることが多い。

 勝負服は法被(はっぴ)をイメージした服で、カラーリングは史実の勝負服(桃地、紫袖、紫鋸歯形)がモチーフだと思われる。脚は左右で色の違う草履を履いている(モデル馬は左後脚の先のみ白かった)。

競走馬のイナリワン

イナリワンの生い立ち

 1984年5月7日、北海道門別町の山本実儀牧場で生まれる。父はミルジョージ、母はテイトヤシマ。イナリワンという馬名は冠名“イナリ”に、「ナンバーワンになってほしい」という願いから“ワン”を付けたもの。

 幼駒時代はそこまで目立つ存在ではなかったが、大井競馬場所属の福永二三雄調教師がその素質を高く評価し、後のオーナーに紹介されて購入が決まった。福永氏はのちに「小柄だが精悍でバランスがよい馬だ。ミルジョージの仔は最初の世代から世話して熟知しているが、イナリワンはミルジョージの分身といった感じで生き写し。賢そうで、気性も競走馬向きと思った」と語っている。

 小柄ながら、バランスの取れた体つきでとくに瞬発力にすぐれていた。現役時代の馬体重は440~450キロと平均よりもやや軽めだったが、細いのではなく、むしろその小ささにしてはガッチリとした馬格だったと言える。また、キック力がはすさまじく、ふつうなら3週間使える蹄鉄が2週間でダメになっていたという。心臓も強く、「スポーツカーのようなエンジンを積んでいる」と評されていた。

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 走法も生まれつき飛び(ストライド)が非常に大きく、駈歩(キャンター)程度でゆっくり走らせようとするとつまづいてばかりだが、スピードを出すと全身を使った力強い走りで雄大な素質を感じさせていたようだ。

 一方で気性はたいへん難しく、大井時代、全戦でパートナーを務めた宮浦正行騎手(現調教師)は「自分が調教をつけていたころに暴走するようなことはなかったけれど、掛かり癖が強くて、いつ爆発するかわかったもんじゃなかった」と語っている。騎乗時以外でも“蹴りグセ”があり、厩舎内の馬房には壁に畳を貼って蹴り対策をしていたらしい(※)。

※サラブレッドの蹴りの威力はとんでもなく、『ウマ娘』にも登場するカワカミプリンセスも馬房の壁を蹴り破っていたり、また今後登場予定のタニノギムレットはいろいろなものを壊すことから“破壊神”と言われていたりするなど、蹴りエピソードは枚挙に暇がない。

 “平成三強”すべての手綱を取ったことがある武豊騎手は、それぞれの印象をこう語っている。オグリキャップは「何を考えているのかわからない」、スーパークリークは「おとなしくてとても乗りやすい」、そしてイナリワンは「怖い」そうだ。イナリワンが当時どういうキャラクターとして捉えられていたかは、筆者の世紀を超えたバイブルでもある、よしだみほ氏の『馬なり1ハロン劇場』にも詳しい。

イナリワンの血統

イナリワン血統表

 父ミルジョージはアメリカでの競走馬時代はケガもあって4戦2勝で早期引退することになり、引退後は日本で種牡馬入りした。初年度から地方競馬を中心に活躍馬を多数輩出し、1989年には中央、地方合算の数字ではあるがノーザンテーストからリーディングサイアーの座を奪取している。

 代表産駒にはイナリワンのほか、ジャパンカップでシンボリルドルフの2着に入ったロッキータイガー、南関東最強の女傑ロジータ、オグリキャップを破って宝塚記念を制したオサイチジョージなどがいる。

 ミルジョージの父ミルリーフは英ダービー、凱旋門賞を勝ったスターホースで、種牡馬としても多くの活躍馬を輩出。その子孫たちの血統は“ミルリーフ系”と呼ばれている。ミルリーフの父のネヴァーベンドは、実績ではさらに上を行き、競走成績では欧州三冠(英ダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞)。種牡馬としてもミルリーフと同様に系統を確立した。さらにミルリーフの父は競馬史に残る大種牡馬ナスルーラと、栄光に包まれた系譜が続く。

 そのナスルーラの血を色濃く引く(3×4の“奇跡の血量”配合だった)ミルジョージは、底知れぬパワーと絶望的なまでの気性の荒さを兼ね備えていて、産駒には才能とクレイジーさが同居したような難しい馬が多かった。イナリワンはまさにその典型だったと言えよう。

 母テイトヤシマは英ダービー馬ラークスパーの仔で、競走馬としては未出走のまま繁殖牝馬になった。イナリワンは9番目の仔であり、最後の仔でもある。

 近親からはとくに活躍馬は出ていないが、3代母(曾祖母)ヤシマニシキの全弟に皐月賞、ダービーのクラシック二冠馬ボストニアン、ヤシマニシキの全姉ヤシマテンプルのひ孫(3代仔)に、1歳下で安田記念、スプリンターズステークスとGIを2勝したバンブーメモリーがいる。

イナリワンの現役時代

 素質を見出してくれた大井の福永二三雄師のもとで競走馬生活をスタートさせることになったイナリワン。宮浦騎手を背に、大井に旋風を巻き起こしていく。ちなみに、福永二三雄師は中央競馬の福永祐一騎手の叔父にあたる。二三雄師の兄弟は全員が騎手となっており、長男・甲氏が中央所属、次男・二三雄氏は大井所属、三男・尚武氏は船橋所属、そして四男で“天才”とうたわれた洋一氏(福永祐一騎手の父)が中央所属である。

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2~3歳(ジュニア級:1986年、クラシック級:1987年)

 イナリワンのデビュー戦は年の瀬も押し迫った1986年12月9日。大井競馬場のダート1000メートル新馬戦となった。これを4馬身差で圧勝し、陣営が「これは“南関三冠(羽田盃、東京ダービー、東京王冠賞 ※当時)”も夢じゃない!」と色めき立ったのもつかの間、2戦目のゲート入りの際に大暴れして頭をゲートに強打し、出走取り消し……どころか、長期休養を余儀なくされ三冠の夢は露と消える。

 5月に復帰するとそこから連勝を重ね、6戦全勝で三冠最終戦の東京王冠賞(当時はダート2600メートル。現在は廃止されている)へ。これも勝ち、さらに船橋へ遠征して新設重賞の東京湾カップも勝利、デビューから無敗のまま3歳シーズンを終えることとなった。

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4歳(シニア級:1988年)

 年明けは3月の大井金盃から始動。しかし、この日はあいにくの重馬場。ストライド走法のイナリワンは、水を含んで滑りやすい馬場を苦手としており、さらにスタートでも出遅れてしまう。けっきょく、最後は怒濤の追い込みを見せるも東京王冠賞で下したチャンピオンスターに雪辱を許して1秒差の3着に。続く4月の帝王賞(ダート2000メートル)、8月の関東盃(ダート1600メートル)でも重馬場に見舞われ、それぞれ7着、5着に敗れてしまうのだった。

 陣営は中央のオールカマー選出(※)を狙っていたのだが選ばれず、秋はそのまま大井に留まり東京記念(ダート2400メートル)へ進み3着。さらに笠松開催の全日本サラブレッドカップでは、元中央所属でオグリキャップ移籍後の笠松競馬の牽引役となっていたフェートノーザンの前に仕掛けのタイミングを誤り、2着に敗れる。

※オールカマーは1986年~94年の期間、各地の競馬場から推薦された馬が出走する“地方競馬招待競走”として実施されていた。95年以降は出走枠が2頭までとなり、獲得賞金の上位馬のみが出走できる形となった。

 しかし内容は悪くなく、また芝の長距離でこそ能力が活きると確信していた陣営は、年末の東京大賞典(当時はダート3000メートルの長距離戦)で「ここを勝ったら中央に移籍、天皇賞(春)を目指す」と宣言。そして宣言通り、この長丁場を我慢しきって勝利を収めるのだった。

5歳(シニア級:1989年)

「このあたしが中央に殴り込んでやらあ!!!」(『ウマ娘 シンデレラグレイ』より)

 地方で14戦9勝という実績を引っ提げ、笠松から中央入りした1歳下のオグリキャップよりもさらに約1年遅れてではあったが、晴れて中央競馬に移籍してきたイナリワン。新たな所属先は美浦の鈴木清厩舎となった。ちなみに、同い年であるタマモクロスは前年(1988年)限りで引退しており、入れ違いとなってしまっている。

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 目標である天皇賞(春)に勝つべく、まずは腕試しでオープン特別のすばるステークス(京都競馬場、当時は芝2000メートル。現在はダート1400メートルのオープン戦)に出走する。しかしまたしても雨に降られ、気性難も出てしまい、いいところなく4着に終わる。阪神大賞典でも掛かり癖が止まらず5着(6着入線だが降着馬がいたため5着に)。

 すると陣営は若干20歳にして騎乗技術を高く評価されていた新鋭、武豊騎手を鞍上に起用する。武騎手にはスーパークリークという“愛”棒がいたのだが、同馬がケガで休養中だったこともあって騎乗依頼を快諾する。

 果たして、レースでは武騎手の巧さが存分に発揮されることとなった。

 最内1枠1番からのスタートとなってコース選択に余裕があったイナリワンは、瞬発力を活かすために中団後ろにつけて得意の差し作戦に。しかし、メインスタンド前で湧き起こる大歓声に反応してしまい、前に行きたがってしまう。そこで武騎手はあえて馬群に包まれるようにイナリワンを誘導し、前に馬を置くことで進路を塞ぎ、落ち着かせたのだ。

 巧みなコース取りで道中をしのぐと、2周目向こう正面あたりから外に出して徐々に前に進出していく。そして最後の直線に入るところで内寄りに進路を取り、ランニングフリー、ミヤマポピーが膨らんでぽっかり空いたコースに入ると、比較的荒れていない最内を、鋭い差し脚で突き抜けていく。

 3馬身、4馬身……みるみるうちに差は広がっていき、終わってみれば5馬身差の圧勝となった。3分18秒8と、当時のコースレコードというおまけ付きである。

 続く宝塚記念も、武騎手とのコンビ続行で挑戦が決まる。1番人気こそ、長距離を避けて中距離路線で勝利を重ねてきたヤエノムテキに譲ったが、それでも2番人気に支持されその実力は評価されていた。

 そしてまたしてもユタカマジックが炸裂する。

 定位置だった中団後方ではなく、なんと3~4番手につける先行策に出たのだ。ムリに押さえつけることはせず、内枠(2枠3番)も活かして自然な流れで好位を追走。ペースも速くならず、最終コーナーに入ったところでスッと2番手に浮上し、そのまま先頭に躍り出て逃げ切り態勢に。最後の最後で伏兵フレッシュボイスの猛追を受けるが、余裕のクビ差勝利。大井からやってきた“遅れてきた英雄”がGIで2連勝を飾った。

 しかし、それでもイナリワンが“日本最強”と認められることはなかった。なぜなら、本来主役を張ると見られていた存在がいなかったからである。オグリキャップとスーパークリーク。のちに“平成三強”と称されるうちの残る2頭だ。

 秋競馬では、ついに三強が相まみえることになる。

 休養を挟み、秋初戦となる毎日王冠を迎えたイナリワン。そこで待っていたのは“平成の怪物”オグリキャップ、そして夏のあいだに力を蓄え急上昇してきたメジロアルダンだった。

 スーパークリークの復帰によりコンビ解消となった武騎手に代わって鞍上に迎えられたのは柴田政人騎手。のちにウイニングチケットでダービーを制覇した、関東を代表するトップジョッキーのひとりだ。そして柴田騎手に導かれ、中団後方からレースを進めたイナリワンは、オグリキャップとお互いをマークするようにぴったりと並走。この2頭は最後の直線でメジロアルダンを振り切ると、壮絶な叩き合いをくり広げる。結果としてオグリキャップがハナ差で勝利するのだが、この死闘は1989年のベストレースとも言えるものだった。

 毎日王冠での激闘がイナリワンの小さな体にたたってしまったのか、天皇賞(秋)、そしてジャパンカップでは力を発揮することなく6着、11着とそれぞれ掲示板外に沈んでしまう。それに対し、オグリキャップは2着、2着。スーパークリークは1着、4着と優勝争いをくり広げており、力を見せ付けていた。

 有馬記念の単勝オッズは、その2頭だけでなくサクラホクトオーの後塵も拝して4番人気16.7倍。やはりその2頭と比べると、イナリワンは格が落ちるのか……と見られてしまっていた。

 しかしイナリワンはここで終わらなかった。2番手オグリキャップ、3番手のスーパークリークが火花を散らすその後ろ、かつての指定席である中団後方でじっと息を潜めて好機を窺う。2周目3コーナーで外から前に進出すると、最終コーナーでは逆にインコースに進路変更。ランニングフリー、オグリキャップ、スーパークリークと、馬体を併せる相手をつぎつぎと乗り換えながら一完歩一完歩前を追い詰めていく。そしてとうとうスーパークリークをハナ差かわしたところがゴールだった。

 名手・柴田の冷静な手綱さばきが光り、天皇賞(春)に続き2分31秒7のコースレコード(当時)を記録して勝利。史上4頭目のグランプリ連覇である。何という勝負強さか……。この勝利で積み上げたGI3勝が評価され、年度代表馬も獲得している。

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6歳(シニア級:1990年)

 この年は阪神大賞典から始動。しかし、阪神大賞典はこの年まで“賞金別定”という制度が設けられており、それまでの本賞金額によって負担重量が無限に加算されていく決まりになっていた。そのため、このレースでイナリワンに課せられた斤量はなんと62キロ。440キロの小柄な身体には酷な負担だった。前年のGI3勝馬であるにも関わらず、1番人気を譲ったのもやむを得ない話だろう。レースでもやはり斤量の影響は避けられず、さらに折り合いも欠いていいところなく6頭立ての5着に沈む。

 その後、物議をかもした“賞金別定”は阪神大賞典では取りやめとなり、翌年からは最大59キロと上限が設けられることとなった。

 イナリワンの次走は天皇賞(春)。ここでは連覇を狙っていたが、有馬記念の雪辱とばかりに快走したスーパークリークの前に2着に敗れる。さらにそのつぎの宝塚記念も同じく連覇が懸かっていたものの、差し脚が鈍く4着に終わった。

 夏はトレセンで過ごし、秋はオールカマーから始動する予定だったが、脚部不安が発生し、休んでも完治の見込みがなかったことから引退となった。引退式は有馬記念当日の12月23日に行われ、通算25戦12勝(中央11戦3勝、GI3勝)、総獲得賞金約5億円(中央では約4億円)という記録を残してターフを去った。1歳下のオグリキャップとともに“マル地”旋風を巻き起こし、その後地方から中央に進出する流れを作ったのは彼の最大の功績だったと言えよう。

 また、イナリワンは天皇賞に有馬、宝塚の両グランプリとGIの中でも格の高いレースを3勝もしたにもかかわらず、中央では一度も単勝1番人気になることがなかった。強力なライバルたちの存在に加え、勝つときはハデに勝ち、負けるときは惨敗。そんなきっぷのいい(?)レースぶりが、安定感のなさに見えたのだろうか。とにかくいろいろな意味で型破りな馬だったのだ。

イナリワンの引退後

 引退後は日高軽種馬農協門別種馬場で種牡馬入り。初年度産駒のツキフクオー(所属は父と同じ福永厩舎!)が東京王冠賞で親子制覇を達成するなど、おもに大井競馬で活躍馬を輩出するなど、現役時代ライバルだったオグリキャップ、スーパークリークと比べて種牡馬としては多くの実績を残した。

 2004年に種牡馬を引退した後は、繋養先を転々とするも2014年に功労馬としての助成金を受けられることが決まり、最後は穏やかな日々を過ごして2016年2月7日に老衰で死去。享年32歳と、人間に換算すると100歳前後と言われる大往生だった。

 ちなみに、種牡馬引退後、大井競馬場に里帰りしてお披露目を行うイベントがあり、宮浦騎手にもイナリワンにまたがって馬場を1周してほしいとのリクエストがあったのだが、「競馬場に戻ってきたら何をしでかすかわからないからね」と笑って断ったそう。安全に厩務員さんに引いてもらってのお披露目となった。そこまでの強烈な個性派が、また大井から誕生してほしいものである。

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『ウマ娘』元ネタ解説記事