サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年5月20日に新たな育成ウマ娘“星3[Line Breakthrough]メジロパーマー”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のメジロパーマー

公式プロフィール

  • 声:のぐちゆり
  • 誕生日:3月21日
  • 身長:160センチ
  • 体重:微減
  • スリーサイズ:B84、W57、H86

メジロ家のご令嬢……だが、社交的で親しみやすいムードメーカー的なウマ娘。
他人のちょっとした変化にも気づけるいいヤツだが、優秀な親戚たちと自分を比べ悩んでいた過去も。
そんな彼女が見出した道は……逃げること!ポジティブに逃げまくれば、いつか道は切り開けるさ。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

【ウマ娘・元ネタ解説】メジロパーマー編。覚醒を促した鞍上の相棒や“逃げ友”ダイタクヘリオスとの出会い、3度にわたるGIでの大逃げランデブーなどのエピソードを紹介

メジロパーマーの人となり

 栗東寮所属。メジロ家に生まれ育った生粋の令嬢だが、誰とでもフランクに接する社交的な性格と言動で、育ちの違いを感じさせず親しみやすいウマ娘である。

 そんな彼女だが、とくにダイタクヘリオスとは最高の“ズッ友”ならぬ“逃げ友”。ゲーム版の育成シナリオ“Make a new track!!~クライマックス開幕~”では、さらにツインターボを加え“爆逃げトリオ”を結成している。この3人、学業のほうは先頭を走るどころか……という有りさまらしい。その後同じく逃げウマ娘であるキタサンブラックを勧誘しているが、果たして“爆逃げカルテット”が誕生する日は来るのだろうか?

【ウマ娘・元ネタ解説】メジロパーマー編。覚醒を促した鞍上の相棒や“逃げ友”ダイタクヘリオスとの出会い、3度にわたるGIでの大逃げランデブーなどのエピソードを紹介

 ヘリオスとのパリピギャルコンビの印象が強いが、パーマー自身はもともとギャルではない。そのせいか、知らないギャル語が出てくるたびに教わってすべて日記に残している。意外にマジメな性格なのだ。日焼け止めはとにかくいいものを使っていたり、周囲がおバカなことをしても鷹揚にしているところなど、お嬢さまらしさも随所に見られる。

 彼女の初登場は意外と最近で、テレビアニメ第2期。自分もGIウマ娘なのに影が薄いことを占い屋にグチっていた。その後ヘリオスと出会い、逃げウマ娘として、パリピギャルとして才能を開花させていくことになる。

 なお、このテレビアニメ第2期では宝塚記念を勝利した際、なぜかトレーナーの姿が見えずパーマーが捜す……というシーンがある。これは史実で、厩舎以外の関係者の多くがパーマーの勝利を予想しておらず、競馬場にほとんど来ていなかったというエピソードが元ネタだと言われている。ただし『ウマ娘』では、じつはトレーナーは来ていたのだが、レース中に貧血を起こして倒れ、医務室に運ばれていたということになっている。

 『ウマ娘』に登場するウマ娘たちは、実際のサラブレッドにならってほとんどのキャラクターがかなりの前傾姿勢で走るのだが、パーマーは背筋を真っ直ぐ伸ばして姿勢よく走っている。これは、史実のパーマーが極端に“頭が高い”走法をしていたためだと思われる。キングヘイローやキタサンブラックなどもやや頭が高い走りかたをしていたが、パーマーほど極端ではなかった。

 交友関係としては、ギャル仲間であるトーセンジョーダンや、史実でも同期のメジロライアン、メジロマックイーンを始めとした同じメジロ家のウマ娘たちとも絡みが多い。

 勝負服は史実のデザインを活かしたカラーリング(白地、緑一本輪、袖緑縦縞)で、アクティブな彼女のキャラクターを反映させたヘソ出しミニスカコーデ。史実のパーマーは左後脚の先が白かったからか、『ウマ娘』では靴の色が左足は白、右は黒と異なっている。

競走馬のメジロパーマー

メジロパーマーの生い立ち

 1987年3月21日、北海道伊達市のメジロ牧場で生まれる。父はメジロイーグル、母はメジロファンタジー。父メジロイーグルの姉であるメジロヒリュウからは、メジロラモーヌ、メジロアルダンと2頭の重賞馬が出ている。

 パーマーの馬格は標準サイズで、幼駒時代は競走能力よりも、明るくかわいい性格で牧場スタッフの印象に残っていたようだ。いつもちょろちょろ動いては、ほかの馬にちょっかいを出していたのだとか。ウマ娘としても随所でコミュ力の高さを示しているが、こういったエピソードや性格が影響していそうだ。なお、このころからすでに頭の高い走法をしていた。

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 パーマーが生まれた年のメジロの馬は、アメリカの有名なスポーツ選手や俳優、ヒーローなどから命名されていたようで、パーマーはプロゴルファーでメジャー通算7勝、殿堂入りも果たしたレジェンド、アーノルド・パーマーから名付けられた。ちなみに、ライアンはメジャーリーグの大投手ノーラン・ライアンから、マックイーンはハリウッドスターとして知られる俳優、スティーブ・マックイーンから取られているとのこと。

 父母に流れるハイペリオン(※)の血なのか、スタミナはかなりいいものを持っていた。加速力やトップスピードはそれほどでもなかったようだが、父メジロイーグルと同じ逃げ戦法を得意とし、後年山田泰誠騎手とのコンビでハイペース逃げに開眼してからは重賞を4勝した。

※ハイペリオン……1933年の英クラシック2冠馬。種牡馬としても大成功を収め、残念ながら現在は衰退してしまったがその血統は“ハイペリオン系”と呼ばれるほど大流行した。小柄で人懐っこい性格のかわいいサラブレッドだったという

 ただ、お調子者な性格はあまり直らなかったようで、たまにマジメに走らなかったり、“逃げ友”ダイタクヘリオスと2頭で大暴走してしまったりと、やらかしエピソードがちらほらと見られる。ちなみに、勝った宝塚記念でも道中で一度やる気をなくしていたらしい。

メジロパーマーの血統

【ウマ娘・元ネタ解説】メジロパーマー編。覚醒を促した鞍上の相棒や“逃げ友”ダイタクヘリオスとの出会い、3度にわたるGIでの大逃げランデブーなどのエピソードを紹介

 父メジロイーグルは日本で19戦7勝、重賞勝ちは1978年の京都新聞杯のみ。“小さな逃亡者”と称された小柄な逃げ馬だった、クラシック3冠戦もすべて逃げ、皐月賞4着、日本ダービー5着、菊花賞3着と健闘。とくに日本ダービーでは、2番手を20馬身近く離した超大逃げを打って競馬場内を沸かせていた。なお、勝ったのはサクラショウリ。タマモクロスの父シービークロスも出走しており7着だった。

 メジロイーグルはプリンスローズ系にハイペリオンの4×3のインブリードと、当時(1970年代)大流行していたスタミナ型の血統構成をしており、菊花賞、有馬記念で3着と長距離路線でも活躍した。その後はたび重なるケガもあって活躍できず、八大競走(※)どころか重賞はけっきょくたった1勝。種牡馬としての評価は低く、メジロパーマー以外には活躍馬を出せなかった。

※八大競走……皐月賞、日本ダービー、菊花賞、桜花賞、オークス、天皇賞(春)・(秋)、有馬記念。1984年のグレード制施行前に、重賞の中でもとくに格の高いレースとされたもの。

 母のメジロファンタジーは現役時代、日本で4戦1勝。その母プリンセスリファードはフランスの馬で、メジロファンタジーはプリンセスリファードが日本に輸入される前に種付けされ、日本で生まれた長女にあたる。ハイペリオン系×リファール(※)系の濃厚な欧州血統で、天皇賞(当時は春・秋ともに3200メートルだった)を目指せるようなパワー&スタミナの遺伝を期待されていたようだ。馬格は標準的で、これはパーマーに遺伝したと思われる。

※リファール……ヨーロッパの短距離路線で活躍し、種牡馬としてはそれ以上に大成功を収めた名馬。父はノーザンダンサー。36歳31日(人間に換算すると約150歳とも言われる)という長寿でもあった。ちなみに『ウマ娘』関連では、ナイスネイチャが34歳の現在も存命。

 以上のプロフィールからもわかるように、メジロパーマーは両親やご先祖さま(ハイペリオン)の特徴や性格をよく受け継いだ馬だったと言えよう。

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メジロパーマーの現役時代

 母メジロファンタジー、さらにのちにはナリタタイシン、ナリタブライアンらも手掛けた名伯楽、大久保正陽調教師のもと、メジロパーマーは競走馬としてデビューを果たす。

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2歳(ジュニア級:1989年)

 パーマーのデビュー戦は1989年8月12日、函館競馬場芝1000メートルの新馬戦。期待度では同期のライアンらに先を越されたパーマーだが、それでもファンからは注目されていたようで、1番人気に支持されている。ただ、ここでは出遅れが響いて6馬身も離された2着に終わる。同条件の2戦目も2番人気となるが、行ききれずに2着。じつは1ヵ月前の7月にもメジロ期待の新星であったライアンが未勝利脱出に失敗しており、メジロ軍団にも暗雲が垂れ込めていた。

 ところが、そのまま函館に残って臨んだ芝1200メートルの未勝利戦で見事に逃げ切り勝利。さらに4戦目の芝1700メートルのオープン特別コスモス賞(1997年から札幌開催、芝1800メートル戦となっている)でも2番手から抜け出して連勝し、なんとこの時点でメジロ軍団の出世頭に。

 オープン馬として栗東に堂々凱旋したパーマーだったが、続く萩ステークス9着、京都3歳ステークス8着と着外に敗れ、さらには骨折してしまい長期離脱を余儀なくされてしまうのだった。

3歳(クラシック級:1990年)

 ようやく復帰が叶ったのは6月の札幌、エルムステークス(当時は1500万下条件……3勝クラス)。オープン戦を勝ったため、2勝馬ながらひとつ格上の舞台で戦わなければならなかったのだ。

 しかし2歳時から続く連敗街道は止まらない。エルムステークス5着、生涯唯一のダート戦となった大雪ハンデキャップ6着、さらに格上挑戦で臨んだオープン特別の道新杯も5着と、札幌3連戦を3連敗。そして連勝を決めた思い出の地、函館に移っても巴賞8着、初の重賞(GIII)函館記念は48キロの超軽ハンデながらも7着に。

 じつはこの函館記念で、パーマーは初めて逃げ戦法を試みたのである(未勝利戦も終始先頭だったが、逃げたというよりも周囲がついてこられなかった)。結果は7着と振るわなかったものの、明らかな格上相手にいいレースを見せたことで、陣営も手応えを感じたようだ。

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 しかしそんなところで、またしてもパーマーを骨折のアクシデントが襲う。6月に復帰して8月に離脱。パーマーのクラシックシーズンは、このたった2ヵ月で終戦となってしまう。そしてパーマーが休養しているあいだに、ついにマックイーンが覚醒。菊花賞を勝利してメジロ軍団のこの世代最初のGIウィナーとなったのである。

4歳(シニア級:1991年)

 パーマーは半年の休養を経て、3月の鈴鹿ステークスで復帰する。ところが1200メートルという短距離はリズムが合わなかったのか、久々がこたえたのか、逃げることができず12着に沈む。だが2400メートルと得意な距離に戻った大原ステークスは、レース勘が戻ったこともあり3着。さらに同コースのオープン特別、大坂城ステークスは4着と明らかに上向きとなっていた。

 そして次戦は……なんと、ただの重賞などを飛び越えて国内最高峰の長距離レース、天皇賞(春)である。強豪が集うGIレースでは、強者との対戦を避けて出走馬が減り、条件馬でも出られることがある。パーマーはそのチャンスを活かし、出走を決めたのだった。

 このレースでの“強豪”は誰だったのか。それはメジロ軍団の同期である、1番人気のマックイーンと2番人気のライアンであった。パーマーは18頭立ての16番人気。これがこの時点での評価の差である。果敢に逃げたパーマーだったが、やはりその評価を覆すことができぬまま直線で失速、勝利したマックイーンから2秒8遅れの13着に終わった。

 このままでは3勝目はいつの日になることやら……と危惧した陣営は、障害レースへの転向を考え始める。するとパーマーは、500万下(現在の1勝クラス)に降級し、相手が弱くなったからか再び奮起。降級2戦目で約1年9ヵ月ぶりの3勝目を挙げて連敗を12で止めると、続くGIII札幌記念でついに重賞初勝利をゲットしたのである。

 しかしこの勢いも長くは続かず、前年に続く挑戦となった巴賞、函館記念はそれぞれ逃げ損なって6着と5着。京都大賞典では逃げに成功したものの、直線で失速して7着と惨敗。これらの敗北を受けて、ついに障害レース転向計画が実行に移されることになった。この“平地からの逃亡”が、『ウマ娘』ではメジロ家を一時離れていたというエピソードに繋がっているものと思われる。

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 迎えた初戦の障害未勝利。平地での重賞勝馬であるパーマーにとってはさすがに楽勝だったか、6馬身差で圧勝する。ところが、「障害をナメている」と評されてしまったように、飛越(ジャンプ)は練習をしても上手くならなかったようで、2戦目を2着で終えたパーマーは障害にぶつけたのか前脚を腫らし、体中擦り傷だらけというボロボロのありさまだった。気分屋の性格が悪い方に出ており、このままでは大ケガをすると考えた陣営は、平地への再転向を決断するのだった。

5歳(シニア級:1992年)

 結果として障害競走への転向は失敗に終わったものの、飛越練習で足腰が鍛えられたのか、平地復帰後のパーマーにはこれまでにない力強さが備わっていた。そしてこの年の春からの1年間で、パーマーは全盛期を迎えることになる。

 平地復帰戦にはなんと芝1400メートルの短距離戦、オープン特別のコーラルステークスが選ばれた。このレースを4着で終えると、じつに1800メートルも距離が延長される天皇賞(春)に再び出走する。

 ここでパーマーは“運命の出会い”を果たす。当時デビュー4年目の若手騎手、山田泰誠である。この年の3月、GIIIの“第1回”アーリントンカップで重賞初勝利を飾ったばかりの山田騎手は、天皇賞でもパーマーで積極的な騎乗を見せハイペースの逃げを敢行。

 連覇を果たしたマックイーンとのタイム差は2秒9と、前年よりも広がってしまったものの、ハイペースの逃げ戦法には手応えがあったようだ。これまで、障害転向や極端な距離変更、鞍上交代など、ありとあらゆる刺激策を行ってきたパーマー。その後GIウィナーになるとは思えないような経歴だが、大久保厩舎では4年後にもナリタブライアンが天皇賞(春)→高松宮杯という2000メートル短縮のローテーションを組んでいる。アグネスデジタルも真っ青だ。

 話はパーマーに戻り、続くはGIII新潟大賞典(当時は芝2200メートル)。ここでも積極的に飛ばしたパーマー×山田騎手は、道中巧みに休みながら最後まで押し切り、2着に4馬身差をつけての逃げ切り勝利を収めるのだった。5歳、26戦目にしてようやく“ハイペースの逃げ馬”として開眼したのである。

 そしてファン投票では36位にとどまったものの、新潟大賞典の勝利が評価されて宝塚記念への推薦が決まったパーマー。じつは戦前はマックイーンとトウカイテイオーの対決に注目が集まっていたのだが、なんと両者とも骨折のため戦線離脱。“主役不在”と言われる中でのレースとなったが、重賞2勝と実績でも上位のはずのパーマーは単勝9番人気にとどまった。勝ったレース以外は惨敗ばかりのレース内容が低評価につながったのかもしれない。

 しかし、パーマーはここで“もうひとつの運命の出会い”を果たすことになる。前年のマイルチャンピオンシップを勝った同期の快足馬、ダイタクヘリオスである。ヘリオスはそれまで、短距離~マイル戦線を中心に活躍してきた。ヘリオス陣営は“ゴチャつかず”、“すんなり先行する”ことができれば距離が長い2200メートルでも好走できると考えており、周囲の馬もそれほどガツガツ来ないだろうという読みから、勝負できるだろうと踏んで出走してきたようだ。

【ウマ娘・元ネタ解説】メジロパーマー編。覚醒を促した鞍上の相棒や“逃げ友”ダイタクヘリオスとの出会い、3度にわたるGIでの大逃げランデブーなどのエピソードを紹介

 12番枠に入ったパーマーは、スタート直後から全力で飛ばして先頭に躍り出る。ヘリオスは2番手を追走。マイラーのヘリオスにとっては中距離のペースなどたいしたスピードではなかったのだが、ムリに競り合って潰されても困るので、セーフティな戦法を選んだのだ。

 そのままレースは進んでいき、3コーナーを回ったところで逃げ切りを狙うパーマーがロングスパートを開始する。しかし、ここで控えて余力を残していたはずのヘリオスがついていけない。このときの阪神競馬場は春の天候不順の影響か芝の生育が悪く馬場が荒れており、どの馬にとってもスタミナの消耗が激しかったのだ。

 後続のライバルたちもここでようやく「もしかしたら仕掛け遅れた!?」と気付くのだが、時すでに遅し。2着のカミノクレッセには3馬身、3着のミスタースペインには7馬身、4着、5着のオースミロッチとダイタクヘリオスは12馬身差をつけて、パーマーが圧倒的な勝利を飾った。勝ち時計は阪神芝2200メートルで開催されたものでは史上3番目、良馬場に限ると史上最遅となる2分18秒6だった。

 じつはこの日、表彰式にはパーマーの関係者はほとんどいなかった。大本命だったマックイーンが骨折して回避となったためか応援ツアーも中止となっていたのだ。これが前述の、テレビアニメに取り入れられたエピソードである。

 その後パーマーは、夏はメジロ牧場で休養し京都大賞典で復帰。しかし、GIウィナーとなってマークがきびしくなり、思うように逃げさせてもらえずに潰されて9着と惨敗。

 さらに再びヘリオスとの競演となった天皇賞(秋)では、今度はヘリオスが引いてくれずに2頭で競り合う“爆逃げ”状態になり、1000メートル通過57秒5というとんでもないハイペースに。数年後、サイレンススズカもこのタイムで1000メートルを通過しているのだが、このときはヘリオスもパーマーもかなりムリをしてのタイムであり、結果として共倒れ。ヘリオスは8着、パーマーはなんと過去最悪の17着に沈んだ。なお、この2頭の後ろをついていった1番人気のトウカイテイオーも7着に敗れている。やはり譲り合いの精神は大切である。

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 「スピード勝負はアカン」陣営がそう思ったかどうかは定かではないが、次走は東京競馬場開催のジャパンカップではなく、コースがトリッキーで逃げ馬に有利になりがちな中山競馬場で開催される、有馬記念となった。すると、天皇賞(秋)の後、マイルチャンピオンシップ優勝、スプリンターズステークス4着(勝ち馬はニシノフラワー)と2戦していたヘリオスが出走を表明したのだ。このときのスプリンターズステークスは12月開催。スプリンターズステークスからの有馬記念は連闘となる強行軍だった。

 「またパーマーとヘリオスが共倒れになったらどうしよう……」とファンも不安を覚えたのか、パーマーはGI馬なのに人気は宝塚記念よりもさらに下がって16頭立ての15番目に。1番人気は天皇賞(秋)の敗戦から立ち直り、ジャパンカップで見事な復活優勝を遂げていたトウカイテイオーだった。

 果たして、またしても2頭の大逃げが展開する。内枠からダッシュよくパーマーが先頭に立つも、向こう正面の直線に入るとヘリオスが追いついてくる。よく見ると、“笑顔の馬”と呼ばれていたヘリオスはいつにも増して満面の笑顔である。つまりハミを噛んでいない=騎手の指示が伝わらない、“掛かっていた”ということなのだが……。

 2頭のランデブーが始まると、後続との差がみるみる開いていく……。4コーナーを回ってもまだリードを残していた2頭に「宝塚の再現なるか!」と実況も場内もどよめきたち、いよいよ最後の直線へ。

 “中山の直線は短い”は競馬ファンなら有名な話。逃げ馬が断然に有利な状況なのだ。短距離馬のヘリオスはさすがにスタミナがもたず、直線の急坂を前に脱落していくが、パーマーの脚色はまだ衰えない。坂を上りきったところでついに後続が猛追を開始するも、翌年ジャパンカップを制するレガシーワールドの強襲をハナ差でしのぎ、パーマーがグランプリの栄冠を手にした。

 艱難辛苦を乗り越えて、春秋グランプリ(※)同一年制覇という史上4頭目の偉業を達成したメジロパーマー。マックイーン、ライアンという同期の星々の陰に隠れていた才能が、ついに輝きを放った瞬間であった。

※グランプリ……ファン投票で出走馬を選出するのが特徴である有馬記念は、もともと“中山グランプリ”の名称で始まったレース。その後も形式を模した宝塚記念とともに“グランプリ”と呼ばれるようになった。

6歳(シニア級:1993年)

 パーマーの好調はなおも続いていた。休養空け初戦の阪神大賞典ではナイスネイチャなどに一時追いつかれるも、そこから引き離す強さを見せて重賞5勝目を挙げる。続く天皇賞(春)では、4着のマチカネタンホイザ以下を大きく引き離し、さらにメジロマックイーン、ライスシャワーの“2強”にも劣らぬ強い競馬で3着に。

 「この実力は本物」と、宝塚記念のファン投票ではマックイーンに次ぐ2位の票数を集め、初めて推薦でなく人気でグランプリレースに出走することとなった。

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 しかし。天皇賞(春)の文句なしの激走を最後に、緊張の糸が切れてしまったパーマー。宝塚記念は2番人気ながら10着、放牧を挟んでの京都大賞典で9着、スワンステークスで11着(これは1400メートルという距離もあるか)、ジャパンカップで10着。さらにカンフル剤として鞍上を横山典弘騎手に交代した有馬記念も6着と、前年の有馬記念から天皇賞(春)までの好調がウソのように惨敗し続けたのである。

7歳(シニア級:1994年)

 種牡馬としての人気があまり見込めなかったことから現役続行を決めたパーマーは、鞍上を山田騎手に戻して1月のGII・日経新春杯に出走。60.5キロという重ハンデを背負いつつも、逃げ粘って2着に入る。しかしレース後、右前脚に屈腱炎を発症していたことが明らかに。サラブレッドにとって“不治の病”と言われるほどのケガで、故郷のメジロ牧場で長期療養をして望みをかけたものの、夏を越えても治る見込みが立たず、9月に現役引退が決まる。

 通算38戦9勝(うち障害2戦1勝)、重賞5勝(うちGI2勝、GII1勝)、総獲得賞金約5億2千万円。“記録よりも記憶に残る”という言葉を地で行った名馬だった。なお、じつはメジロ軍団でマックイーン、ブライト、ドーベルに次ぐ歴代4位の賞金額を獲得している。

メジロパーマーの引退後

 引退後は種牡馬入りしたものの産駒成績は振るわず、2002年で種牡馬も引退。産駒で唯一の重賞ウィナーが、パーマーが苦手だった障害レースの京都ハイジャンプを勝ったメジロライデンだったというのも興味深い話である。

 種牡馬引退以降は、功労馬として洞爺湖のメジロ牧場、レイクヴィラファーム(洞爺湖のメジロ牧場の設備と繋養馬を引き継いだ牧場)で余生を過ごし、2012年心臓麻痺で死去。享年25歳だった。

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