2019年6月27日、インディ―ゲーム制作チームNIGOROが開発した2Dアクションアドベンチャー『LA-MULANA 2』のNintendo Switch、プレイステーション4、Xbox One版がPLAYISMより同時に販売開始された。PC(Steam)版から約11ヵ月後のコンソール版リリース、しかもNintendo Switchとプレイステーション4はパッケージ版も店頭販売とのことで、2000年代から国内インディーゲームシーンをリードしてきたチームとして、ひとつの到達点を迎えた感さえある(海外コンソール版のリリースはもう少し先になるようだが)。

 『LA-MULANA2』がどのようなゲームで、どのように制作されたかについては、これまでファミ通.com上で何度も記事にしてきた。

 こうして無事にリリースされたいま、改めて開発者インタビューをするのも野暮ではないかと思っていたのだが……記者が以前から個人的に聞いてみたいことがあった。NIGOROのリーダー・楢村匠氏の“クリエイティブの源泉”だ。

 「ゲーム業界未経験、自身でプログラムを組まない……という稀有なスタンスで、なぜ多くの人々を巻き込めるゲームを長年にわたって作り続けられるのだろうか?」ということは、プロジェクト主体の過去記事からはなかなか見えてこない部分である。もしその先に“ゲームクリエイターの卵”たちが参考にできる知見があるとしたら、それは大いに価値のあることではないだろうか?

プログラミングしないインディ―ゲームクリエイター楢村匠氏の“周囲を巻き込み続ける力”に迫る! 『LA-MULANA 2』インタビュー_01

楢村匠氏(ならむらたくみ)

インディーゲーム制作チームNIGOROのリーダー。最新作『LA-MULANA2』ではゲームデザイン、ディレクション、グラフィックデザイン、サウンドを担当。

大作RPGを夢想していた少年時代

――今回は楢村さんのインディーゲーム制作活動のルーツにせまってみたいということで、特別に『LA-MULANA』および『LA-MULANA2』の制作用ノートを持ってきていただいたのですが……手書きのものからPC作成のリストにいたるまで、きちっとしていますね。

楢村こういうのを作るのが好きなんです。自分用の、誰に見せるものでもないのに。

――資料をカチッとまとめると“いい仕事した感”ありますもんね。

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楢村氏が『LA-MULANA』および『LA-MULANA2』制作時に作成した、自分用の資料の一部。要所にイラストを交えつつ、内容が細かく記されている。それぞれに何が書かれているかいまでも判別できます……と楢村氏。

楢村僕はプログラムと出会うまではこういう作業ばかりやっていました。子どものころは親に捨てられていました(笑)。

――これらはすでにどこかで公開したことがあるのでしょうか?

楢村NIGOROメンバーに内容を伝えるためにHTML化したものとか、メンバー間のMSNチャットのログは、『GR3』特設サイト(NIGOROの前身となるゲームサークル“GR3 Project”が手がけたオリジナルゲームを紹介するサイト)の直下のディレクトリにアップしていました。

――それだけでも読み物になりそうな。

楢村まさに公開当時はみんなそこを読んでいました(笑)。『LA-MULANA』のプレイ動画にやたら詳しいコメントを書いている人は、あの時代のデータを読み尽くしている人たちなんです。あのころはサイトに書き込んで来る人たちもいっしょにやっている感じでしたね。

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――子ども時代からこういうゲームがあるといいな、というアイデアを書き綴っていたとのことですが、私(インタビュアー)にも似たような経験があります。小学校のころ、セガ・エンタープライゼス(現セガゲームス)がゲームプログラムとゲームアイデアのコンテストをやったときに、自分で考えたゲームの企画を方眼紙に書いて応募しました。けっきょく入賞できなかったんですけど、後にそのコンテストで田尻さん(※ゲームフリーク代表取締役の田尻智氏)が受賞していたことを知って、じゃあ仕方がないなみたいな(笑)。

楢村僕も小学生のとき、ゲーム雑誌でやっていた『ポケットザウルス 十王剣の謎』(※現バンダイナムコゲームスのバンダイが1987年に発売したファミコン用ゲーム)のアイデア募集に応募しました。“アイデア”って言ってるのに、こういう人種は頼まれてもいないのにドット絵を書いたり、マップまで書いて送っちゃうんです。

――ぶれていないですね。

楢村もう現物は残ってないですが、小学生のとき書き始めたRPGのアイデアノートがありました。それに設定やら続編やらを継ぎ足してっていうことを中学高校生になってもやっていました。積み重ねて書いていくことが楽しかったんです。最終的には5部作の大作になりましたね(笑)。

――いま話題のインディーゲーム『RPGタイム! ライトの伝説』の設定を地で行ってるじゃないですか!

楢村そうですそうです。

――そうやって書き溜めていながらも、いつかは形にしてやろうとどこかで思っていたのでしょうか。

楢村自分でプログラムしてというのはないですね。習作にちょっと手を加えたものを何作か雑誌に投稿したことはあるんですけど、それで自分の考えているゲームを自分で作るのは不可能だとはっきりわかってしまいました。

――楢村さんは当時MSX(※マイクロソフトとアスキーが共同開発し提唱したPCの共通規格。初代規格モデルが1983年に発売され、以降、3つの上位規格が提唱された)ユーザーだったんですよね。

楢村もともとゲームをどんどん買ってもらえる家庭ではなかったんですけど、ゲームを単純に遊んでいたのは小学校くらいまでなんです。中学になると音楽だったり絵を描くほうに興味が移っていきました。プログラムを書かなくてもゲームが作れるツールが出たのは高校に入ったくらいのときですが、当時は相変わらずできもしない大作ゲームのアイデアをノートに書き続けていました。

――楢村さんのクリエイターとしてのスタイルの原型が、この時期に確立されたんですね。

楢村音楽のほうは、鍵盤ハーモニカで作った曲を楽譜にしてそれをMSXに打ち込んで演奏させる程度ですが。高校では友だちとバンドを組んで文化祭で発表していました。当時の友だちが小室哲哉さんのモデルのキーボードを買ったので、そいつの家に入り浸って好きな曲を打ち込んだり、途中からオリジナル曲を作ったりしていました。そのときに作った曲のひとつが『LA-MULANA2』に入っています(笑)。

――原型っていうか、まさかの直結。

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楢村氏がさまざまなゲームのアイデアを綴ったノートの表紙。察しの通り“学生時代に使っていたけど最初の数ページしか書かずに終わったノートの再利用”だ。

ホームページ時代の“競争”によって集った仲間たち

――大学は美術系の学校に進学して、そこでグラフィックデザイナーとしての素養を身につけた……ということでしょうか。

楢村そうですね。大学生のときに、小学校時代から考えていた5部作RPGを漫画で表現することに挑戦してみたのですが、「こんなちっこいコマの中に人物をいっぱい登場させるのは無理!」となって、早々にやめました。ではクリックアドベンチャーだったらできるんじゃないかなとか、若いときからそういう妄想をずっとし続けているんですけど、僕個人で実行に移したことはなかったですね。

――楢村さんが大学生だった1990年代当時だったらHyperCard(※ハイパーテキストの編集を実現したMac用ソフトウェア)を使えば、十分いけたのでは?

楢村実際大学では、Macで作るマルチメディアみたいな、そういう研究を選んでいました。こういう風に作ればいいかなと思いつくまではいいんですけど、マップとかキャラの顔グラフィックとかから作り始めるから、一向にゲームにはならないんです(笑)。僕の理想はひとりで延々とゲームを作っていたい。でもプログラムができないので、僕の頭の中で考えた凄いゲームのアイデアをプログラマーがどんどん作ってくれて、僕はそのリソースを延々と作り続けたいんです。

――その理想はある意味、NIGOROとして活動するようになってからの体制で実現化されているんじゃないでしょうか。

楢村もちろんそういう形を作りたくてプログラマーふたりを誘って活動しているんですけど、こういう風に取材を受けたりプロモーション用の素材を作っていると「おや、違う仕事が増えてきてるな」と。

――そこはインディーデベロッパーの宿命ということで。NIGORO初期メンバーのプログラマー、蛯原さんと鮫島さんに出会ったのは、大学生時代に運営していたサイトが縁だったとのことで。

楢村大学に入ったのがちょうどインターネットが話題になり出したころで、僕はMSXのファンサイトをやっていました。当時は同じようなジャンルのサイトを巡っては掲示板に挨拶を書き込んで相互リンクをしてって文化があったんですけど、ふたりともそういう繋がりで話すようになりました。話しているうちにいろいろ思い出してきましたが、当時のサイト運営は競争でしたね。

――競争?

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楢村「あそこのサイトはあのゲームを取り上げたから、俺はこのゲームを勝手な解釈で攻略してみたぞ」といった具合に、来客数増やすために独自性の高いコンテンツを増やしていったんです。

――タイトルよりも切り口で勝負だと。

楢村あのころは、MSXの中古ゲームソフトは箱や説明書がない状態でふつうに売られていました。それらを買って遊ぶと、操作はわかるけどバックストーリーはわからない。だから僕のサイトでは、ストーリーを勝手に仕立て上げて紹介していたんです。そういうことを重ねたおかげで、ゲームを作った経験はなくても、ゲームはこんな風にできているのかという理解が深まりました。いまのゲーム制作も、そのときの財産だけでやっているようなものです。

――その下地があってこその、プログラマーを巻き込んでの以降の活動ということなんですね。最初にゲームを作ろうとなった時点で、すでに「こういうものを作りたい」というイメージがあったのでしょうか?

楢村なかったですね。“ゲームを作りたいくせにアイデアをノートに書き溜めるだけ”という状態をとにかく卒業したかったんです。ひとりのプログラマー(蛯原氏)とチャットしているときに「試しになんか作ってみます?」って会話になった時、初めて“ゲームを完成させられる”っていう可能性がみえました。

――おお!

楢村蛯原にとっては簡単なゲームをちょっとというつもりだったんでしょうけど、僕のほうは小学校から溜まっていた熱いパトスを一気に放出させたものだから、1作目の『GR3』を完成させたときは「まさかこんなに大きいことを考えていたとは」と言われました(笑)。MSXゲームのファンサイトでメンバーを集めたので、最初はサイトにくるお客さん向けのコンテンツだったのですが、ゲームの公開ページのリンクが当時のネットニュースに貼られて、平均10前後だった日間PVが一気に1万に跳ね上がったので、これは何とかしないととなりました。従来のゲーム情報ページとオリジナルゲーム公開用ページをわけて、後にそこで『LA-MULANA』(フリーゲーム版)も発表しました。それがNIGOROの原型です。

――『GR3』、『LA-MULANA』ともに当時のKONAMIが開発・販売していたMSX用ゲームソフトをイメージしたものですが、やはりコナミの存在は大きかったと。

楢村KONAMIのMSXゲームは、レベルがほかのゲームの1段2段上でしたからね。当時のユーザーはみんなやっていました。僕自身あれでゲームのおもしろさを知ったってところもあります。

レトロ風ゲームの“その先”に進めた原動力

――『GR3』もフリーゲーム版『LA-MULANA』も、MSXのグラフィック性能や、対応ゲームの挙動を再現したものとして当時のマニアに注目を集めました。そこはもう、狙い通りと。

楢村すでに同じスタイルでフリーゲームを発表していた先人がいたこともあって、届いてほしい層に確実に届きました。マニアしか反応しないという理想の状態でした。

――2Dドット絵が世代を問わず表現スタイルとして選択されるようになる以前ですもんね。

楢村いまの若い子がやっているピクセルアートとはまったく違う流れですね。“実機のグラフィックを再現”とか、いまはそういうレトロ8ビット風のゲームがいっぱい出ていますけど、僕らはそれを実機でやっていたので、もうやりたいことは終わっているんです。

――MSX風のゲームをMSXで開発していたということですか?

楢村『GR3』のステージ3か4までのグラフィックは、MSXの実機で作成していました。個人制作のグラフィックツールで作ったデータをフロッピーディスクに保存して、それをWindows PC上で変換して使っていたのですが、効率が悪すぎるとなって、それからはPhotoshopで作るようになりました。

――そうした段階を経ているから、Wiiウェア版『LA-MULANA』を作るとなったときも、あえてオリジナルのグラフィックにこだわる必要性は感じなかった……ということですね。レトロハード時代からのゲームファンの中には“ドット絵の厳密性”にこだわる人も少なからずいると思われますが、そこは知ったことではない、と。

楢村Wiiウェア版『LA-MULANA』以降は、テキストはメインのゲーム画面と異なる解像度で描いています。そこで厳密性をとった結果メッセージが(解像度不足で)読めなくなってもしょうがないので、そこはいわゆる“ドット絵警察”とは相入れないスタンスでやってます。言い分はわかるんですけどね。

――マニアにしかわからない“設定“よりも、画の必然性をとった。

楢村それはたぶん、絵描きだから。絵描きでない人は、当時の(レトロハードの)ドット絵が好きだったらをそれをそのままの状態で受け入れるけど、絵を描いていた人は、当時も満足いってなかったと思います。いまはWindows PCでもMacでもフルカラー使えるわけだから、それは表現を高めるために使うべきだし、過去ハードの制約に縛られる必要はないんです。そもそも昨今のゲーム機には“パレット”という機能がないですからね(笑)。

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――そう思えるかっていうのは、かなり大きなポイントだと思います。楢村さんのそうした価値基準がなければNIGOROはNIGOROにならず、“レトロ風のフリーゲームを作り続けるマニア集団”で終わっていた可能性があるからです。楢村さんは、単にMSX好きな人だったら踏み越えられなかった領域に乗り出して、そのままふたりのMSX好きプログラマーを引っ張っていった……ともとれます。

楢村彼らは彼らで凝り固まった考えかたではなかったので、「こうするとゲームとしてよりよくなる」という提案には賛成してくれたんです。

――私はそこに関しては、楢村さんの“人を巻き込む力”が大きく働いていたのではないかと考えています。さらに言えば、楢村さんがいまこうしているのも、その都度都度でいろんな人を巻き込んできたからこそではないかと!

楢村そんなに巻き込んでいるかなぁ。この人(※インタビュー時に隣に座っていた、アクティブゲーミングメディアの水谷俊次氏)は巻き込んだ自覚はありますけど(笑)。

――私がそう確信(?)したのは、昨年7月のPC版『LA-MULANA2』のリリース記念イベント後に、蛯原さんとお話したときでした。お話を伺うと、MSXおよびそのゲームソフトに対してすごく愛情を持っていることが伝わってきて、「もし楢村さんに出会っていなかったら、個人でMSX風のゲームをずっと作っていたのでは」と思いました。先ほどプログラマーのおふたりが凝り固まった考えではなかったから提案に賛同してくれたとおっしゃいましたが、実際は、ゲームプログラマーとして優れた知識と技術を持ったおふたりを充分に納得させるものを楢村さんが提示し続けたからこそ、チームとしてつぎの段階に進むことができたのではないかと。

楢村なるほど……。それはたぶん、大学生のときからの自分の性分かもしれません。1年のとき、友だちに誘われて演劇サークルに入ったんです。「俺も入ってるからお前も入れ」という謎理論で(笑)。演劇は未経験だったけど作曲はしていたので音響をやりたいなと思っていたら、1年生は全員役者をやるという決まりになっていました。役者強制期間が終わってからは、いろんな裏方に口出しはじめました。すでに1年生のときから「ここのテーマ曲作っていいですか」とか「舞台こうしたら組めるんじゃないですか」って偉そうに言ってはいましたが、1年かけてありとあらゆる裏方の作業をひと通り経験したんです。そうして3年生になったら、各分野で僕の知識を上回る人が誰もいなくなった。そうなると好きなことができるんです。

――(笑)。

楢村で、何をやったかというと、SFヒーローものでした。劇場に全長50メートルのロボを登場させたりしましたね。

――いやいや、さすがにそれは盛ってますよね?

楢村同級生にこのくらい(50cm)のロボットを本当に作ってもらって、それを天井に吊り下げて、「遠くにいるけどあれは50メートル級だ!」と。

――そんなに手の込んだことを。

楢村先輩たちは、演劇で有名な大学のスタイルを真似しようとしていたんですけど、僕は演劇のセオリーを知らないから、やりたいようにやる。現場で何年もやってきたから下地はあるので、人が口出しできない状況にもっていけるんです。

――知識や技術を持った人も、「なるほどそれはすごい」と思えるものがあれば動く……ということをナチュラルに実践しているんですね!

楢村そう思えるように、表面的に仕組むことはできます。本質はわかっていないですよ(笑)。

思い描いたアイデアは形になってこそ

――それを形にして世に出せるという点で十分、一線を越えています。

楢村“形にならない”っていうのが嫌いなほうです。その根底には、小学校時代から形にならないものを書き続けていた悔しさがあるんですけど。美術大学って、課題が完成しなくても評価が得られる傾向があったんです。失敗したという経験であったりとか、課題に対してこういうコンセプトでアプローチしたという過程が評価されるのはわかるんですけど、それを見て僕は「でもできてないじゃないか」と思ってて。

――なかなか辛辣な。

楢村さっき話に出たHyperCardやDirector(※マルチメディア制作ソフト)を使ってインタラクティブコンテンツを作ってみようという課題があったとき、他の人は「こういうテーマで物語がこう展開して……」っていう習作の発表で終わっていたんですけど、僕だけロゴが表示されたタイトル画面があって、“PUSH START”って表示しました。

――ああ、そこも含めて“形”なのか! どこまでが自分の表現したいことかという枠が、ひとつ大きいんですね。

楢村大きいというよりも、違うんです。本当に漫画や小説が好きな人は、ただただ書き続けると思うんですけど、僕は商品となった形に憧れて作っちゃう。それはそれでまずいなと思ったのは、自分の子どもを見たときですね。次男が「ぼく漫画をかく」といって一番最初に書いたのが、背表紙のバーコードだったんです(笑)。表紙の折り返しには“1巻2巻3巻ぞくぞく登場”って書いてあって、俺ってこんなだったのかと。

――しっかり受け継いでいますね。

楢村「こういうところにこだわる人間って、完成させないと偉そうにできないな」と逆に教えられました。

――まだ形になっていないものの完成形をどこまでイメージして、それにいかに説得力と夢を持たせて提示できるか? というのは、『LA-MULANA2』のKickstarterの際にも発揮された部分ではないかと思います。

楢村ああ、同じですね。“2015年末発売!”とか(笑)。2014~15年くらいは、戦略を考えてというよりは、喋りたいことを喋っていました。メンバーにも言わないで作り続けていた世界についての話とか。自分はこうやるんだということをどんどん発信し続けることの一環ですね。

ほかがやらないおもしろいことをするインディ―ゲームメーカーとしての挑戦は続く

――『LA-MULANA2』は、2019年6月27日にはコンソール版がリリース。プレイステーション4版とNintendoSwitch版は、パッケージソフトも販売されました。それについての率直な感想を。

楢村いままでの流れの通過点として、作ったものがパッケージソフトとして店に並ぶのはすごいことだと思っています。“インディーゲームの国内コンソール版パッケージソフト化”に関しては初めての例ではなく後発の立場なので、感慨深いと同時に悔しさもあります。僕は悔しがるとパワーが出るほうなので、まだまだ目指す先はあるなと思います。

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プレイステーション4版とNintendo Switch版のパッケージと、初回特典のメモ帳とサウンドトラックCD。

――『GR3』、オリジナル版『LA-MULANA』を制作してきたメンバーの最新作『LA-MULANA2』のコンソール版パッケージソフトが、KONAMI流通でリリースされるということまでは、さすがの楢村さんも思い描いていなかった未来だったと思います。

楢村それを仕掛けたのはこちら(水谷氏)です。

――あえてですか?

水谷 あえてです。パッケージ版の流通メーカーの選択肢としてKONAMIさんが挙がっていたら、選ばないわけにはいかないので。

楢村(アクティブゲーミングメディアは)大阪の会社なので、こういうことをおもしろがるんです。ある日「KONAMIさんから出ることになったんで」って連絡があって、この人何を言っているるんだろうって(笑)。

――コンソール版はPC版からの変更点がいくつかあるそうで。

楢村音楽は、作業的に間に合わなかった部分をきちっとしました。当初はアレンジを外部の人に全部任せるつもりだったのですが、なかなかイメージが合わなくて、けっきょく僕がぜんぶやることになりました。PC版ではゲーム前半の何曲かは変更前の音がそのまま残っていたのですが、それを含めて全部見直しました。あとはオープニングですね。PC版リリースの1ヵ月前に間に合わせたものを、アニメーション処理するものに挿しかえています。

――つまり楢村さんが「これでよし」といった状態で出る、ということですね。

楢村アクティブゲーミングメディアさんのほうでの移植作業がけっこう大変そうだとわかった時点で「これは(手直しする)チャンスあり」と。ショップ店員の書き換えは「(元ネタのゲームキャラに)似てるから、似てないように書き直してください」って言われたんですけど、それだとパロディじゃなくなってしまう。だったらお祭り感満載で、知っているインディーゲームの登場キャラを出そうとこちらから提案しました。

――けっきょくご自身の手間が増える方向で。

楢村自分で言い出したことでもあるし、そうしたほうがおもしろくなることはわかっていたので、そこに関しては何とも思っていません。声をかけたインディースタジオにはPLAYISMとかかわっていないところも多くて、とくに『UNDERTALE』のトビーをひっぱってこれたのは、恩返しにもなっているかなと。

プログラミングしないインディ―ゲームクリエイター楢村匠氏の“周囲を巻き込み続ける力”に迫る! 『LA-MULANA 2』インタビュー_02

――それもまた、枠を跳び超えたアクションですね。

楢村PC版を制作中のときは作るのでいっぱいいいっぱいだったので、今回は楽しいこと、ほかの人がやっていないことをやろうと思っていました。Wiiウェア版『LA-MULANA』のときまではいろいろやってたんですけどね。僕らのそういうところを気に入ってくれていた人には、今回、何のアクションも見せていなかったので。

――「NIGOROもすっかりふつうになっちゃって」とは言わせないぞと。

楢村『LA-MULANA2』のKickstarterをやっていたときに「こいつら最近金の話しかしないな」というコメントがネットにありました。僕らやPLAYISMさんとしては、いまこのプロジェクトに挑戦していることや、◎◎ドル達成するにはどうすればいいかって考えること自体を楽しんでいたんですけど。

――そういう風に解釈する人もいるんですね。

楢村前作の時点ですでに「こいつらはもう金儲けをしはじめた」って言われていたんですけど、本当に金儲けしたかったらインディ―ゲームは作らないです(笑)。「昔みたいに金なんか取らずにやれよ」っていう人もいますが、それは「いいもん作って飢えて死ね」って言われているようなものなので。

――アマチュア時代から知っているからこそひと言いたい、というファン心理なのでしょうけど、NIGOROをとりまく状況は当時から変化していますしね。

楢村当事者としたら、外から見えない部分でいろいろなことが起こっていて、その結果絞りこんだ情報を発信しているわけだから、誤解を受けても仕方ない面はあります。実際は僕らがやってることは昔から変わっていなくて、その規模と発表する場が変わっただけなんです。本当は(Wiiウェア版『LA-MULANA』のときに自主制作した)攻略本もやりたいんですけど、いまのゲームの規模で、しかもやるからには英語版も出さないと、ということになると……。Kickstarterのリワードもゲーム完成と同時に届けられればよかったのですが、ご覧の通りまだ海外版が終わっていないので、空いた時間にコツコツやっているという状況ですね。

――変化ということでは、初期メンバーの蛯原さんがメインプログラマーを退いて、中川氏が新たなプログラマーとして加入しました。

楢村彼は唯一のゲーム業界経験者であり、これまでのメンバーの誰も持っていなかった“ゲーム全体の進行管理をまとめる能力”を持った人です。「自分が関わったゲームで一本たりとも世の中に出ていないものはない」というのが彼の矜持だそうで、貴重な人材です。

――『LA-MULANA2』も中川氏の途中加入によってリリースできた……?

楢村実際、UIまわりに関しては非常に助けられましたね。これまでは純粋なプログラマーがふたり体制だったのが、これからはひとりが管理面を兼業することになるので、開発のマンパワーは下がるかもしれません。でも、別の面でバックアップしてもらえるだろうという期待はあります。新しいのを作ろうという話はもう出ていますし、それ以外のものも空いた時間にどんどんやっていきたいですね。

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