サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2023年2月24日に新たな育成ウマ娘“星1[爆走!ターボエンジン]ツインターボ”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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 サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2023年2月24日に新たな育成ウマ娘“星1[爆走!ターボエンジン]ツインターボ”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

『ウマ娘』のツインターボ

公式プロフィール

  • 声:花井美春
  • 誕生日:4月13日
  • 身長:146センチ
  • 体重:計測不能
  • スリーサイズ:B72、W51、H74

暴走!爆走!いつでも走り回っている全力少女。
自分の限界を知らないため、ギリギリまで追い込んでしまう……のだが、極限状態を楽しんでいるフシもある。
同世代に比べ幼い性格で、臆面なく人に感情を伝えられる、よく言えば素直、悪く言えばワガママだけど憎めないムラッ気ウマ娘。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

ツインターボの人となり

 止められない、止まらない、暴走系ウマ娘。何事にも全力が過ぎていつもスタミナ切れで負けてしまう。でも根っこが無邪気でモノを知らないだけなので、皆に愛されている。美浦寮で同室のイナリワンからはいつも世話を焼かれていておこづかいをもらったりと、まるで姉妹というよりは親子や祖母と孫のような関係である。

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 テレビアニメ第2期で“チームカノープス”としてともに励んでいたイクノディクタスやナイスネイチャ、マチカネタンホイザとは、ゲームでもよくいっしょにいる大の仲よし。モデル馬も、ほぼ同年代で戦ってきたライバル(イクノディクタスはひとつ上、ナイスネイチャは同い年、マチカネタンホイザはひとつ下)でそれぞれ対戦経験がある。重賞馬だがGIには手が届かなかったという共通点もある。

 モデル馬が同い年のウマ娘には、ほかにもテレビアニメ第2期でさんざん絡んだトウカイテイオーや、マイル・短距離路線のヤマニンゼファー、ケイエスミラクルらがいる。同じ“爆逃げ”愛好家でツインターボと絡んでいる場面も見られるダイタクヘリオスやメジロパーマーはひとつ上の世代だ。

 じつは臆病な面があり、サポカイベントでもその様子が描かれている。モデル馬はいつも極端な大逃げをしていたが、それしかできないということもあるがほかの馬が追ってくるのが怖かったかららしい。

 また、書道(ものすごく達筆)のほかムーンウォークができるという意外な特技があるが、それもモデル馬が爆逃げでスタミナが切れたあと、ほかの馬につぎつぎとかわされていくときの姿が「ムーンウォークみたい」と言われていたことに由来しているのだろう。

 容姿に関しては、青系のグラデーションが入ったツインテール(“ツイン”ターボだから?)、オッドアイや瞳のうず巻き、ギザギザの歯など属性がてんこ盛り。146センチと小柄で細身なのも、モデル馬が馬体重410キロ程度と小さい馬だったからと思われる。

 勝負服はカーレーサーが着るような(ツインターボ=“エンジン”だから?)黒いインナースーツの上に大きめのパーカーを着たスタイル。パーカーの白地に緑色の袖というのは、モデル馬の勝負服のカラーリング(青地、白袖+緑二本輪)がモチーフになっているのだろう。青色の髪やリボンのゼブラ柄も同様に、モデル馬のメンコ(青地、耳カバーがゼブラ柄)から来ているものと思われる。

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競走馬のツインターボ

ツインターボの生い立ち・血統

 1988年4月13日、北海道静内町の福岡牧場で生まれる。

 先述したように、ツインターボとはターボチャージャーを2基搭載したエンジンのことで、とにかくパワーが出る。猛烈なダッシュ力を誇ったターボにはピッタリの名前だったと言えよう。現在では自動車の排ガス規制もあってあまり見られなくなってしまったが、競走馬ツインターボが活躍した時代では元ネタの名前はよく知られていた。

 幼駒のころから食が細く、体格の成長が遅れていて、見た目も小さく肉付きもそれほどよくなかった。しかし、動き自体はバネが効いていて期待されていたようである。他馬を寄せ付けない逃げに持ち込むダッシュ力は、このころから片鱗を見せていた。

 のちに“最後の個性派”などと呼ばれることもあったターボだが、おとなしい馬だったという。しかし、ひとたび人がまたがるとものすごくイヤがって思うように動いてくれず、スタッフを手こずらせていた。また、ほかの馬に前を走られるだけでもパニックになってしまうなど、極端に臆病な性格だったのだ。しかも、気に入らないと走るのをやめてしまうワガママなところもあったようだ。

ツインターボ血統表

 父はアメリカ生まれの輸入種牡馬ライラリッジ。キングヘイローの父ダンシングブレーヴなどを輩出したリファールの仔で、半姉にはフランスでGIを3勝したリバークイーンがいる。ライラリッジ自身は条件戦で2勝したのみで、重賞にも手が届かなかったものの、そんな良血を買われて日本で種牡馬となる。

 産駒からは活躍馬はツインターボただ1頭しか出せなかったが、芝でもダートでもそこそこ走り、勝ったレースは比較的短いところが多かったようである。

 母はレーシングジイーン。戦前にイギリスから輸入された牝馬オーイエー(Oh Yeah!)を祖とした牝系に連なる1頭である。ちなみに、オーイエーの子孫にはターボのほか、1971年に天皇賞(春)を勝ったメジロムサシなどがいる。レーシングジイーンも自身は11戦1勝、競走馬としては実績を残せなかったが、繁殖牝馬としてはターボに加え中央で4勝し、生涯で約1億円ほど賞金を獲得したゲイリーミナレットなどを輩出した。

 生涯唯一の勝利が芝1800メートルであり、ターボがある程度のスタミナを備えていたのは母の影響があったのかもしれない。

 このように、両親ともに現役時代の実績が皆無であったことから、ターボへの血統的評価はゼロに等しいものだった。しかしそこから、“記録よりも記憶に残る名馬”は誕生したのである。

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ツインターボの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

3歳(クラシック級:1991年)

 美浦の笹倉武久厩舎に所属が決まったターボだったが、調教に手こずったこともあってゲート試験になかなか合格できず、デビューは新馬戦開催が終わる3歳3月までズレ込んでしまう。

 3月2日、中山競馬場ダート1800メートルの新馬戦に臨んだターボは、血統やデビューまでの経緯のわりには単勝4.4倍の3番人気と悪くない支持を受けることになる。鞍上の石塚信広騎手に笹倉師から与えられた指示は「逃げろ」だけだった。

 気性面で問題がありすぎるターボにとって、馬群でほかの馬といっしょに走らせるのはリスクが限界突破している。前にほかの馬がいるとパニックを起こすくらいだから追込もダメ、あとは逃げるしかないが、強烈なダッシュ力を備えるターボなら望むところである。

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 ちなみに、ダートが選ばれたのはターボが“スタートがヘタ”だから。スタートに失敗しても、足を取られてダッシュをしづらいダートなら挽回可能だが、走りやすい芝だととっとと先に行かれてしまってすべてが終わってしまう。とくに短距離では致命傷になってしまうので、適性はありそうだが距離もなるべく長いところにしたというのがレース選択の理由のようだ。

 調教師の苦心がしのばれるデビュー戦となったが、これを3馬身差の圧勝でクリアー。課題のスタートも、何とかなりそうだと2戦目には芝2000メートルのもくれん賞(現在の1勝クラス)が選ばれる。ダートから芝への転換というのもあって人気を落とす(7番人気)が、ここでもあっさりと逃げ切ってデビュー2連勝。

 これはもしかしたら……と、日本ダービーへの出走をにらんで4月の青葉賞(当時はオープン特別。1994年から重賞に昇格し、1995年から日本ダービーのトライアル競走となる)に出走する。鞍上はベテランの大崎昭一騎手に乗り替わり。しかし、まだ力不足だったようで9着と惨敗し、ダービー挑戦の夢は露と消えた。

 気を取り直して条件戦に戻ったターボ。日本ダービーの日に同じ東京競馬場で行われた駒草賞(現在の2勝クラス)では柴田正人騎手を背に5着に敗れたものの、いいところを見せる。これならチャンスがあると、次走にはGIIIラジオたんぱ賞(現・ラジオNIKKEI賞)への挑戦を決める。

 条件戦で5着の馬が格上挑戦して大丈夫なのか? と思われそうだが、ツインターボに限ってはある程度の目算が立っていた。ラジオたんぱ賞が行われる福島競馬場は小回りで直線も短く、さらに最後に東京競馬場のような急坂もなくスタミナ切れにやさしい。逃げ馬にとっては有利なコースなのである。

 逆に、差し・追込勢にとっては直線が短いからとスパートを最終コーナー前からかけなければならないのに、コーナーの角度がキツくてスピードを上げると膨らんで距離をロスしてしまうというリスクがある。

 その予測はまさに正解だった。再び大崎騎手と組んだターボは、見事に逃げ切って重賞ウィナーとなったのである。しかも内容がよかった。

 逃げ馬に有利なレースであるのは皆わかっているので、ほかにも逃げ馬が何頭か出走していた。しかし、ターボの逃げは次元が違った。先頭に出たらペースを落として余力を残しながら進むようなクレバーな作戦ではなく、スタミナが切れるまで全力全開でダッシュし続ける背水の陣なのだ。結果として他馬はついてこられずに持ち味が死んでしまい、ターボはまんまと逃げ切りを決めたというわけ。

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 これが私の生きる道、と玉砕系爆逃げスタイルを確立させたターボはセントライト記念に出走して2着と粘ると、菊花賞はスキップして再び福島に遠征して福島記念へ。ここでも2着に入って着実に賞金を加算していく。そして初のGI挑戦を決めるのだった。有馬記念である。

 しかし初の長距離ということで、スタミナがもつかどうか不安もあったのだろう。いつもとは違い、2番手からなら背中が大きく見える、いわば“中逃げ”程度の半端な逃げをしてしまう。その結果、最終コーナーまでももたずに失速してしまい14着に終わってしまう。勝ったのは14番人気のダイユウサクで、単勝1.7倍のメジロマックイーンは2着だった。

 ターボはレース後、鼻血を発症していたことが発覚する。鼻からしか呼吸ができない競走馬にとって、鼻血は命に関わる大問題である。ここまで驚くほど上手くいっていた競走馬生活だったのだが、暗雲が立ち込めることに……。

4歳(シニア級:1992年)

 鼻出血に加え、年明けには体調も崩したターボ。この年は長期休養を余儀なくされることに。ようやく復帰が叶ったのは年の瀬も迫った11月だった。新たな相棒に柴田善臣騎手を迎え、得意の福島競馬場で行われるオープン特別、福島民友カップに出走したのだ。

 しかし、ブランクに加え「気持ちよくターボを逃げさせたらやられる」と、他馬の陣営が爆逃げ対策を打ってきたことが大きく、10着と大敗を喫してしまう。

 けっきょく、ターボはこの年、この1戦しかできなかった。多くの馬が競走馬として充実する4歳のシーズンを棒に振ってしまったのである。

5歳(シニア級:1993年)

 年明けからは日刊スポーツ賞金杯(現・日刊スポーツ賞中山金杯)、中山記念と出走し、ともに6着と敗れる。じつは爆逃げ対策への対策として、少しペースを落とした逃げをテストしていたのだ。しかし有馬記念のときと同様、ターボにはあまり合っていなかったようで結果は出なかった。

 大崎騎手と三たびタッグを組んだ新潟大賞典では、いつもの爆逃げに戻してみた。が、当時は小回りで直線も長くなかった新潟競馬場でも(現在は改修され日本一長い直線を誇る競馬場になった)上手くいかずに8着だった。

 そこで陣営はひとつの決断を下す。次走の七夕賞で逃げ職人、中舘英二騎手(現調教師)に騎乗を依頼したのである。ヒシアマゾンやアストンマーチャンとのコンビでも知られる名手で、とくにローカル戦(東京、中山、阪神、京都以外の競馬場で行われるレース)を得意としていた(もともとは調教師試験の特典を受けるために勝ち星を稼ぎに行ったからのようだが)。

 ターボと中舘騎手との相性はバツグンだった。それまでの苦戦がウソのように、福島競馬場で躍動する。いつもの大逃げから中舘騎手の檄を受けて何とか粘り込む最後の直線、ターボはすでにバテバテだったが、追うほうもヘロヘロ。2着に入ったのはアイルトンシンボリ。ステイヤーズステークスも勝っているスタミナの持ち主であったにもかかわらず、ターボの粘りに屈したのだ。

 こうして2年ぶりの勝利を2回目の重賞制覇で飾ったターボは、その勢いに乗ってオールカマーに出走。前走で衝撃的な逃走劇を演じたターボだったが、予想家もファンも半信半疑だったのか人気のほうは3番人気と、本命とはみられていなかった。

 それもそのはず。このレースには天皇賞(春)でメジロマックイーンを破ったライスシャワーや、桜花賞馬で中山記念ではツインターボに先着していたシスタートウショウといった有力どころが出走していたのだ。ほかにも、暑い季節にめっぽう強いイクノディクタスなども名を連ねていた。

 しかし、相手が誰だろうとターボのやることはただひとつ。いや、いつも以上に気合の入った逃げを見せてくれた。スタートから差を広げ続け、向こう正面から第3コーナーに入ると20馬身もの大差に。最後尾までひとつの画面で収めるのが難しいくらいのリードである。しかも、それでもなおターボは中舘騎手を背に飛ばし続ける。

 場内の観客も、テレビの前の競馬ファンも、もはや笑うしかない。前代未聞の光景だった。そして最後の直線、2番手集団が必死に追い込んでくるが時すでに遅し。けっきょく5馬身差をつけての快勝だった。

 天皇賞(秋)におけるサイレンススズカやパンサラッサの大逃げも話題となったが、それでもなお“逃げ”と言ったらツインターボの名前を挙げる人が多いのは、このレースの衝撃がそれだけ強かったからだろう。

 オールカマーで一躍全国区の人気者となったターボだが、続く天皇賞(秋)では力尽きて17着と大敗。勝ったのはヤマニンゼファーだった。ラジオたんぱ賞のところで書いたように、このコースはターボとの相性が最悪なのである。予想家だって競馬に詳しいファンだってわかっていた。それでも2番人気に指示されたのは、ひとえにターボの逃げには皆が期待せざるを得ない何かがあったのだと言える。

5歳(シニア級:1994年)

 オールカマーの激走で燃え尽きてしまったのか、天皇賞後の休養から戻ってきたターボは精彩を欠いた。アメリカジョッキークラブカップ、日経賞と6着に敗れ、リフレッシュを挟んで挑んだ8月の函館記念(函館競馬場も小回り)では、さらに着順を落として11着に終わる。ならばと得意な福島競馬場で3年ぶりの福島記念に出走するがこれも8着。

 人気投票で選ばれた有馬記念では、「ロマン逃げ再び!」とばかりの爆逃げを見せ、向こう正面では20馬身以上の差に。しかし、ここで立ち塞がったのがナリタブライアン。3コーナーに入ると敢然と追い上げを開始し、みるみるうちにリードを縮めていく。すると、4コーナー手前で早くもターボは捕まってしまう。

 追い抜かれるとパニックになってしまうのは大人になっても変わらない。ここから逆噴射をしているかのようにつぎつぎと他馬に抜かれていったターボは、ブライアンからは5秒、ブービーのダンシングサーパスからも2秒6遅れる段ラスに終わる。なお、このレースでは相棒、中舘英二騎手はヒシアマゾンに騎乗しており、ブライアンに次ぐ2着を確保していた。

6歳~7歳(シニア級:1995年~1996年)

 力が衰えていたターボだったが、その逃げっぷりはファンを大いに喜ばせていた。年が明けて出走したアメリカジョッキークラブカップでも、10頭立ての10着ながら4コーナーまで先頭を死守。

 続くダート戦の帝王賞(当時は4月開催。1996年から6月開催に)では、武豊騎手を背に今度は“逃げない”という思わぬ一手を打つ。またもや最下位だったが、そんなことでも話題になっていた。そしてこの年は“福島”競馬場で行われた“新潟”大賞典では、再び逃げて14頭中11着。

 そしてこのレースを最後に、公営の上山競馬へと移籍することに。初戦で勝利を挙げたものの、以降は掲示板に入ることさえ叶わず1996年のクラスターカップを最後に引退を決めた。

 通算成績は中央競馬時代のみで23戦5勝(帝王賞含む)、重賞3勝、通算獲得賞金は約1億8千万円。その強烈すぎる逃げは多くの競馬ファンの脳裏に刻まれ、『ウマ娘』で取り上げられる前からずっと人気者であり続けていた。

引退後のツインターボ

 引退後は宮城県の齊藤牧場で種牡馬入りしたが、1998年1月15日に心不全で10歳もの若さで亡くなった。競馬だけでなく、余生さえも急いで駆け抜けてしまったのは残念でならないが、『ウマ娘』の世界でも全力で活躍してほしい。

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