サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年8月10日に新たな育成ウマ娘“星3[黒鉄の大志]バンブーメモリー”が実装。ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のバンブーメモリー

公式プロフィール

  • 声:藍原ことみ
  • 誕生日:5月14日
  • 身長:157センチ
  • 体重:増減なし
  • スリーサイズ:B77、W57、H81

情熱のままに突き進む熱血タイプ。好敵手と激しくやりあった父の武勇伝に感動し、自分もそんなライバルに巡り会いたいと血潮を燃やす。
風紀委員長を務めているが、そのきっかけは、TVドラマで竹刀を握る風紀委員長役がカッコイイと思ったからである。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

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 トレセン学園で風紀委員長を務めているウマ娘。溢れる情熱をもって風紀委員の仕事をこなしている。性格は熱血スポ根体育会系。マジメだが融通が利かないということはなく、むしろ親切な性格で話もわかる“いい人”である。にも関わらず、何かと空回りしがちでうまくいかないことが多く、悩んでいるようだ。

 これまで、アニメやマンガを含めてそれほど活躍の場は多くなかったが、イベント“轟け、エール!トレセン学園応援団”では前年度のトレセン学園応援団長を務めていたことが明らかになっており、ストーリー内ではその勇姿を見せてくれている。

 栗東寮所属で同室はゴールドシチー。よく寝坊していることに苦言を呈しつつも、モデル業との二足のわらじで悩む彼女に理解を示したりするなど、仲は良好のようだ。また、委員長つながり(?)でサクラバクシンオー(“学級”委員長)と絡むシーンもよく見られる。

 レースに出走するウマ娘としてはオグリキャップを目標としており、正々堂々と戦うことを誓い日々トレーニングに励んでいる。

 史実ではオグリキャップらと同世代。同い年にはオグリキャップのほか、サクラチヨノオー、メジロアルダン、ヤエノムテキ、スーパークリークがいて、ひとつ上にもゴールドシチー、イナリワン、タマモクロスなどウマ娘のモデルとなった馬が多い。

 ちなみに、ゴールドシチーは史実ではバンブーメモリーより年上だが、『ウマ娘』の世界では反対に後輩であるようだ。オグリキャップも史実では同年代ながら『ウマ娘』ではバンブーメモリーの“先輩”となっているなど、異なる世代として変更されている。

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 勝負服は、黒のコートに白のベスト、緑のスカートといった出で立ち。コートやベストの裾には竹(英語でbamboo(バンブー))の刺繍が入っているほか、グローブには史実の勝負服(黒地、白三本輪、白袖)を思わせる黒の3本のラインが入っている。また、制服時の“夢”の文字が入ったハチマキに代えて竹の刺繍が入ったカチューシャをしている。“風紀委員”の腕章はレース時もつけているようだ。

 また、モデルとなったバンブーメモリーは顔の中央に“流星”と呼ばれる白い模様が入っており、ウマ娘としてのバンブーメモリーにも白い前髪という形で反映されている。

競走馬のバンブーメモリー

バンブーメモリーの生い立ち

 1985年5月14日、北海道浦河町のバンブー牧場で生まれる。父はモーニングフローリック、母はマドンナバンブー。半弟にGIIIマーチステークスを制したバンブーゲネシスがいるほか、近親に小倉記念勝ち馬スプリングバンブーとその仔で日経新春杯を勝ったバンブーユベントス、スプリングバンブーの弟で愛知杯(当時は牡牝混合戦だった)勝ち馬バンブーマリアッチなどがいる。

 バンブーメモリーの父はアメリカでGIIIをひとつ勝っただけの無名馬、母も現役時代の実績はなく、当時の主流から外れた血統であったため、バンブーメモリーの血統的な評価はあまり高くはなかった。

 気性はひたすら前向きで、つねに全力で走ろうとしていた。レースではもちろん、調教でまたがるだけでスイッチが入るため、“調整”をさせるのがとても難しかったようだ。栗東トレセンの調教タイムのレコードを2回も更新しているのだから、その本気度がうかがえる。『ウマ娘』では苛烈なトレーニングをみずから遂行するストイックなシーンが描かれているが、調教までの移動でさえも力んで走ろうとする史実での姿が元になっているのだろう。

 負けん気の強さは思わぬところにも表れていて、厩舎にいるとき、馬房に人が近付いてくると、かまってもらおうと我先に柵から首を出し、隣の馬が同じように出てこようとするとそれを威嚇して引っ込めさせていたという。

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 ただ、これまで数多く紹介してきた猛馬たちのように人が近付くだけで噛みつこうとするような“ザ・気性難”なところはなく、ひたすらにマイペースなだけで、日常に限ればスターホースの中ではおとなしい部類に入る馬だったらしい。

 精神面が比較的安定していたからか、体重の増減もそれほどなかった。競走馬生活を通じて486キロ~504キロに収まっていて、ふた桁の増減があったのもわずか2回(それもプラスマイナス10キロ)だけである。

 生まれつき蹄が弱く、デビューから15戦は負担の少ないダートで走っていたる。だが、蹄は成長とともに強くなったと言われており、また肉体のほうもタフだったことから、デビューから引退までの約4年間でなんと39戦も走っている。とくに1989年は年間で12戦も出走した。その中には2回の連闘(2週続けてレースに出ること)も含まれている。“Make a new track!!”シナリオもかくやの出走ぶりだ。

バンブーメモリーの血統

バンブーメモリー血統表

 父モーニングフローリックは北米を舞台に戦った米国産馬。パワーが持ち味で、GIIIカナディアン・ターフハンデなど通算11勝を挙げている。1981年より日本に輸入されて種牡馬となり、1994年に20歳で引退した。

 種牡馬としては中央、地方問わずそこそこの活躍馬を輩出。バンブーメモリーのほか、GII時代のスプリンターズステークスを制したキングフローリックや、障害競走で6連勝を飾ったアワパラゴンなどがいる。平地競走では比較的短いところを得意とする産駒が多かったようだ。

 母マドンナバンブーは、1926年に宮内省下総御料牧場がイギリスから輸入した2頭の繁殖牝馬のうちの“種正(競走馬時代の名前はヤングマンズファンシー)”を祖とする牝系に連なる牝馬。種正のファミリーラインは日本競馬を代表する牝系のひとつであり、1歳上のイナリワンもその一族である。

 マドンナバンブーの父モバリッズは短距離馬で、マドンナバンブー自身もマイルを中心に走っていた。つまり、バンブーメモリーは父も母も短距離馬だったために、自身も短距離やマイルで活躍する馬になったのだろう。

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バンブーメモリーの現役時代

 1987年、2歳になったバンブーメモリーは、栗東の武邦彦厩舎に所属する。武調教師は武豊騎手の父であり(豊騎手は三男、元騎手の幸四郎調教師は四男)、騎手時代は“ターフの魔術師”と言われ、トウショウボーイ(ミスターシービーの父)の現役後半で主戦を務めるなど、通算1163勝を挙げた名手である。

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2歳(ジュニア級:1987年)

 11月14日、京都競馬場のダート1200メートル、武豊騎手を背に新馬戦にてデビューを果たしたバンブーメモリー。初戦は1着馬から3秒7もの大差をつけられた5着に終わったが、2戦目は差のない2着と調子を上げ、1987年の最終開催日である12月27日に行われた3戦目の未勝利戦を圧勝して初勝利を飾る。3戦目の初勝利なら遅くはない。

 このころは前述したように蹄が弱く、負担の少ないダートレースが選ばれていた。また、溢れるスピードを活かしてか前につける作戦が採用されていたようだ。

3歳(クラシック級:1988年)

 年明け、昇級初戦の4戦目を0秒4差の2着で終えると、1週間後に連闘で出走し、0秒3差の3着。3週間後の同条件では同タイムで2着と、少しずつ1着とのタイム差を縮めていく。そして通算7戦目で待望の2勝目を挙げ、オープン入りを果たした。

 当時のダート路線には3歳馬にとってちょうどいいレースがなく(GIIIユニコーンステークスは1996年、交流重賞ジャパンダートダービーは1999年に創設)、蹄の状態も考慮されたのか長期休養に入ることとなる。

 そして11月に復帰すると、脚質をこれまでの逃げ、先行から差しに転換。復帰初戦こそ0秒4差の3着に敗れるも、2戦目で勝ち3勝目を挙げ“準オープン”と呼ばれるクラスにまで上がった。

 しかし、そこから苦戦が続くこととなる。通算10戦目となる昇級初戦のポートアイランドステークス(当時は12月開催)を5着で終えると、続くサンタクロースハンデでは1着から2秒3差の14着と惨敗。2歳時とは反対に最悪の状態で1年を終えることになってしまった。

4歳(シニア級:1989年)

 年が明けても負の連鎖は止まらない。7着、4着、4着と勝利は遠く、通算15戦目となる鳴門ステークスでは12着に沈んでしまった。

 ここで陣営はついに芝レースへの転向を決意する。すると、16戦目にして芝初挑戦となった道頓堀ステークスで、バンブーメモリーは才能のきらめきを見せるのだった。前走の惨敗がウソのように、2着に0秒9もの差をつけて圧勝。

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 長らく苦しめられてきた蹄がよくなって、思いきり走れるようになったからとよく言われているが、加えてそもそもが芝向きでもあったのだろう。

 次走のシルクロードステークス(当時は5月開催でオープン特別だった)では、豊騎手が先約のためにバンブーメモリーから乗り替わっていたシヨノロマンに敗れるも、僅差の3着に入る。

 ちなみにこのシヨノロマン、ご先祖さま(5代母)はシラオキ(『ウマ娘』の“シラオキ様”のモデル)である。シヨノロマンはバンブーメモリーと同い年で、ヤエノムテキの片想い相手とウワサされていた。前年の牝馬クラシック戦線で活躍した有望株だったが、このレースを含めて4回バンブーメモリーと戦い、勝ったのはこの1回だけだった。

 さて、ここで陣営はGI制覇のチャンスを狙って、翌週の安田記念に連闘での出走を決める。いくらバンブーメモリーがタフな馬だとはいえ、初の重賞、初のGIを連闘で挑むというのは無謀な話に思われた。実際、単勝は名手・岡部幸雄騎手が騎乗するにもかかわらず10番人気(18.7倍)にとどまっている。

 しかし、この年の短距離・マイル戦線は、前年でサッカーボーイやニッポーテイオーが引退していたため、本命なき大混戦となっていた。武豊騎手が「(バンブーメモリーは)芝でも相当強いから」と父の邦彦師に登録を進言していたとも言われており、陣営としても勝算は十分にあったのだろう。

 果たして、レースはバンブーメモリーのものとなった。スタートは出たなりで馬群の後方に控えると、そのまま流れに身をまかせて追走。最短コースを悠々と進んでいく。最後の直線ではやや前が詰まって追い出すのに手間取るが、前が開けてゴーサインが出るととんでもない末脚が炸裂する。馬場の中央あたりから弾丸の如き勢いで他馬をゴボウ抜きし、鮮やかな差し切り勝ち。

 2着にも人気薄(12番人気)のダイゴウシュールが入る大波乱の結果となった。それまでの安田記念は、比較的本命サイドで決着することが多かったのだが、このレース以降波乱の結果になることが多くなる。なお、この年はまだ“馬連”などの馬券は導入されておらず(単勝、複勝、枠連だけ)、馬券的には静かな結果に終わったため大騒ぎにはなっていない。

 このころのバンブーメモリーは蹄の状態こそ改善されたものの、性格による調教のしにくさは相変わらずだった。そのため、陣営はレースを調教代わりにしてバンブーメモリーの調子を整えていた。そんな中、明らかに距離が長そうだった宝塚記念(2200メートル)をイナリワンの5着、高松宮杯(当時はGIIで2000メートル)をメジロアルダンの2着と、上々の結果を残す。

 下半期最大の目標は11月のマイルチャンピオンシップである。放牧で疲れを取ったバンブーメモリーは、10月末のスワンステークスでひと叩きして本番を目指すことに。そして2着を0秒6突き放す圧勝でステップを踏み、最高の状態で淀の舞台へと乗り込むのだった。

 しかし、そこに“怪物”が立ちはだかる。天皇賞(秋)からジャパンカップへ直行せず参戦を表明してきたオグリキャップである。前走で武豊騎手が騎乗するスーパークリークに苦渋を味わわされた怪物は、じっと牙を研いでいた。

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 バンブーメモリーは安田記念の勝ちをなぞるようなすばらしいレース展開を見せる。後方からムリせずに追走し、最後の直線に入ると馬場の中央あたりから抜け出してスパートする、勝ちパターンである。安田記念のときより追い出しがスムーズだったぶん、より完璧に近い内容だったと言える。ところが、道中はずっとバンブーメモリーの前にいたのに、進路が詰まったせいでスパートのタイミングが遅れたオグリキャップが、後ろから飛んできた。

 ここでバンブーメモリーがインコースに寄って進路を閉めれば、オグリキャップはアウトコースに進路を切り替えざるを得ず、脚も鈍ったはずである。オグリキャップとバンブーメモリーのあいだにはそこそこの距離があったため、斜行になる恐れもなかった。しかし、武豊騎手はあえてそれをせず、オグリキャップに真っ向勝負を挑んだ。それだけ愛馬に自信があったのだろう。

 結果は……ハナ差、オグリキャップが差し切っていた。3着以下ははるか後方に離されており、いかにこの2頭が抜けた実力を持っていたかを世に知らしめる結果となった。

 オグリキャップはこの後、連闘でジャパンカップに臨み、世界レコードで決着したレースでクビ差の2着に迫ることになるが、じつはバンブーメモリーも同じく連闘でジャパンカップに出走した。しかし、さすがに距離が長すぎたのか見せ場もなく13着に沈み、この年2回目の連闘は実らなかった。

 とはいえ、安田記念の勝利とマイルチャンピオンシップでの健闘が評価され、バンブーメモリーはこの年の“最優秀スプリンター賞”に選ばれる。「スプリント(短距離)レースなんてほとんど走っていないじゃないか」と言われるかもしれないが、このころの“スプリンター”とは短距離~マイル、中距離まで含む幅広いレースが評価対象となっていた(“長距離以外のレース”と考えるとわかりやすいかもしれない)。

 ちなみに、この賞は1993年より“最優秀短距離馬”の名称に変更され、さらに2008年から“1600メートル以下の競走における最優秀馬”と規定が改められている。

5歳(シニア級:1990年)

 5歳になってもスタイルは変えず、レースを使いながら体調を整えていくやりかたを続けていたバンブーメモリー。年明けはお正月の名物レース“金杯”に出走を予定していた。しかし、ここでじんましんを発症してしまう。

 マイルチャンピオンシップ、ジャパンカップときびしいレースが続いたことで、疲れが出ていたことが影響したのではないか、とも言われているが、けっきょくその余波は春シーズンいっぱいまでおよんだ。

 4月の京王杯スプリングカップで復帰するも、末脚が不発で5着。その後安田記念、宝塚記念と前年と同じローテーションで戦いそれぞれ6着と、オグリキャップへのリベンジどころか掲示板にも届かない結果となった(オグリキャップはそれぞれ1着、2着)。

 しかし、夏を迎えると状況が好転。CBC賞2着でようやく復調の兆しを見せると、続く2000メートルの高松宮杯を楽勝した。久々に見せた強い勝ちかたに、ファンの期待も再び高まることに。

 そして休養を挟み、秋は毎日王冠からスタート。ここは試運転ということもあって5着に終わるが、天皇賞(秋)ではオグリキャップら長らくしのぎを削ってきた同期との大激戦の中、メンバー中最速の末脚をくり出して意地を見せる。神がかった騎乗に導かれたヤエノムテキや、バンブーメモリーと同タイムの鬼脚で追い込んだメジロアルダンには先着されたものの、初めてオグリキャップを下して3着に食い込んだのだ。

 もはや状態は最高潮にあった。最強のライバル、オグリキャップはジャパンカップへ直行し、マイルチャンピオンシップでは単勝が唯一のひと桁倍率(1.6倍)となる断トツの1番人気に支持される。勝つしかない。

 ところが、好事魔多し。1番人気を背負ってなお、堂々と勝ちパターンの競馬に持ち込んだバンブーメモリーだったが、人気薄(10番人気)の5歳牝馬パッシングショットの強襲にあい、大金星を献上してしまったのである。じつは夏のCBC賞でも敗れており、その末脚は警戒すべきものではあったのだが……。

 なお、3着にはこちらも同い年のサマンサトウショウが全メンバー中最速の末脚をくり出して食い込んでいる。この名前に聞き覚えのある方もいるかもしれない。そう、スイープトウショウの祖母なのである。

 思わぬ敗戦に勝利への意気込みを新たにしたバンブーメモリー陣営は、この年からGIに昇格し、年末開催となったスプリンターズステークスへ歩を進める。差のない2番人気にはパッシングショットがつけたが、本来格が違うはずの相手。負けられなかった。

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 レースはスプリント戦らしく、前半600メートル32秒4という驚異的なハイペースで進んでいく。バンブーメモリーは中団につけるも、最後の直線に入ってもなかなか進路が開かない。しかし、一瞬の隙を突いて抜け出すとすさまじい末脚で一気に先頭まで突き抜けて、GIとしてのスプリンターズステークス初代覇者に。勝ち時計の1分7秒8は当時の日本レコードで、史上初めて日本で1分7秒台が記録された。

 パッシングショットは、発走前に楠孝志騎手を振り落とすというハプニングがあったうえ、スタートで出遅れてジ・エンド。バンブーメモリーをも上回るメンバー最速の末脚を見せたが、先頭ははるか遠く8着に終わっている。

 この年も、GI勝利こそスプリンターズステークスの1勝に留まったものの、短距離~マイル戦線ではやはり第一人者という評価をされたバンブーメモリーは、前年に続いて最優秀スプリンターに選出される。そして現役をもう1年続け、さらなる栄光を追い求めることにしたのである。

6歳(シニア級:1991年)

 同い年のライバルたちも多くが去り、ひとり奮闘を続けるバンブーメモリーだったが、ダイイチルビーやダイタクヘリオスら新興勢力の台頭もあって春シーズンは苦戦する。

 初戦の京王杯スプリングカップは、前半で下げすぎて最後届かずに4着、安田記念は馬群から抜け出せずに自分より後ろにいたダイイチルビーにかわされ、ダイタクヘリオスにも追いつけずに3着と、かつての勢いに陰りが見えてきていた。

 そして宝塚記念では競走馬生活初のしんがり負け(10着)という悲しみを味わう(勝ったのはメジロライアン)。じつはこのレースより、関西テレビの杉本清アナウンサーの名調子「今年もあなたの、私の夢が走ります。(中略) 私の夢は○○です」による予想披露が行われるようになった。そしてこの日、杉本アナが指名したのはなんとバンブーメモリー! 戦い終わって、杉本アナは邦彦師にグチをこぼしたらしい……。

 その後は、前年同様に立て直しのためにCBC賞に出走。しかし11頭立ての9着に終わり、負のスパイラルが止められなくなっていた。

 休養を挟んだ秋も低迷は続き、毎日王冠6着、スワンステークス8着、マイルチャンピオンシップ8着。世代交代の波には逆らえず、この年限りでの引退が発表された。

 バンブーメモリーの競走成績は、通算39戦8勝、重賞4勝(GI2勝)、獲得賞金約5億円。強敵揃いのオグリ世代に遅咲きながら殴り込み、死闘をくり広げた馬だった。優秀な成績を残しながら、それ以上に強烈な記憶を競馬ファンに刻み込んだ個性派だったが、『ウマ娘』でいま再び脚光を浴びている。スプリント・マイル戦線を多いに沸かせた彼は、『ウマ娘』の世界でどのように輝いていくのだろうか。

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バンブーメモリーの引退後

 引退後は日高軽種馬農業協同組合で種牡馬入り。地味な血統面が敬遠されたこともあって交配相手が集まらず、13年の種牡馬生活で種付け数はわずか57、そのうちデビューまでこぎつけた産駒は35頭しかいなかった。それでも地方競馬で活躍馬を輩出している。なお、種牡馬時代はあまり牝馬に興味を持ってはくれなかったようだ。

 その後、1997年からは日高スタリオンステーション、そして2000年からは生まれ故郷のバンブー牧場に居を移し、なかば功労馬のような形で余生を過ごしていた。2004年シーズンを最後に種牡馬を引退し、悠々自適の生活を送った後、2014年8月7日に老衰で亡くなっている。

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