『死印』前日譚小説“花彦くん誕生編” 第5話 制裁(最終回)_01

エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。


“花彦くん誕生編” 第2話 オワリ、そして……

 少年は、上半身裸で自宅の洗面所に立っていた。自宅といっても坂井の家だが、目の前には大きな鏡が設置されていて、今は傷だらけの体が映っている。
 赤く腫れあがった腹部、胸のまわりに集中する火傷のような痕、青く変色したアザ……。それらは全部、今までの指導による傷だった。
 傷は日ごとに増えていく。小さいものまで含めたら一体どれだけあるのか、それは少年にももう見当がつかない。だけど彼にとっては、体の傷なんてどうでもよかった。
 ――今の姿をお母さんが見たら、僕のことをどう思うんだろう。
 声を失うほど驚くかもしれないし、情けないとものすごく怒るかもしれない。でも確実なのは、ひどく悲しませるだろうということだった。
 少年にとって、体の傷なんかどうでもよかった。それよりも『今の自分は母親を悲しませてしまう』といった方が精神的に辛く、心をひどく惨めなものにした。
 少年は、自分がまだ幸せだったころ――死んでしまった母親との記憶を、心の奥底から必死に取り出した。
 真っ先に思い出すのは、母親が自分のことを「かわいいね」と褒めてくれたことだった。それは、母親が小さいころに使っていたスカートを履かせてもらったときのことで、彼女はそれを見て笑顔で言ったのだ。あのとき彼女の喜んだ姿を見たときから、少年は好んで女装するようになった。そして今でも――もういなくなってしまった母親を近くに感じられる気がして、女装したくてたまらなくなるときがある。
 「お母さん……」
 少年は消え入りそうな声で呟いて、洗面台に置いてあった服をつかんだ。それは今や思い出となってしまった例のスカートで、母親のことを感じられる唯一のものだった。スカートをきつく胸に押し当て、悔しくて目頭を熱くさせた。

 「――おい、もっと嫌がってくれよ?」
 少年は、今日も職員準備室の地下にある部屋で、坂井による教育的指導を受けていた。指導の全ては坂井の欲を満たすだけの行為だ。もちろん少年はそれを理解している。しかし、逆らえば指導が過激になるだけなので、いつもなら耐えるしかなかった。
 だが、今の指導内容ではそうも言っていられなかった。女装した状態で変なポージングを強要され、それをインスタントカメラで撮られ続けているからだ。
 かつて自分に幸福な感覚を味わわせてくれた女装――しかしいま強要されているこれは、少年にとってちっとも幸せなものではなかった。坂井を喜ばせるための女装なんてあり得ない。
 僕はおもちゃじゃない、人形でもないのに……。
 少年の中に苛立ちが募っていく。彼にとって、女装は母親との幸せな記憶だ。そんな記憶を今の状況が汚してしまいそうで、耐えられないほど嫌だった。女装で辱めを与えることが坂井の目的だとわかっているのに、彼の心の中は嫌悪感でいっぱいになった。
 「やめるのは勝手だが……これはどうなってもいいんだな?」
 坂井にそう言われ、少年はそっちに目を向けた。すると、坂井が床に向けて何かを放り投げた。それは――母親のスカートだった。
 「どうして……!」
 思ってもみなかった物を見せられ、少年は悲鳴のような声を上げた。……一体、どうやって見つけて……?
 少年は、さっきまでやられていた行為がどうでもよくなるほど、激しく取り乱した。このままだと、大切な記憶まで汚されてしまう……!
 「もう一度聞くぞ? これはどうなってもいいんだな?」
 坂井はニタニタとした笑みを浮かべている。全てを見通していたのか、愉しそうな目をこちらに向けていた。
 「……なんで」
 「んん?」
 「なんでこんなことするの? 僕が何かした? してないよ、何もしてないのに!」
 さすがに我慢の限界で、たまらず少年は感情を爆発させた。他のことなら耐えられるが、母親のことだけは許せない。これだけは譲れない大事な部分で、何もできずに言いなりになるなんて御免だった。
 しかしそれを口にした途端、坂井は怒りの表情を浮かべ、冷え切った瞳で睨みつけながら少しずつ迫ってきた。そして目の前まで来たかと思うと、強引に彼の首元をつかみ、逆らえないほどの強い力で体ごと引きずった。少年はそのまま壁際に放り投げられ、完全に逃げ場をなくしてしまった。
 そんな姿を一瞥してから、坂井は脇に置かれた長机の方へと向かった。少年には薄暗くてよく見えなかったが、坂井は何かの準備をしているようで、地下室の中に何かを掻き混ぜるような音が響いた。

 カランカラン……カランカラン……。

 坂井が右手を動かすたびに、それは甲高い音をあたりに響かせた。少年の位置からは坂井の手元がよく見えなかったが、一瞬だけ彼が注射器のようなものを手に取ったのが見えた。
 やがて準備を終えたのか、坂井が近づいてきた。手にはやはり注射器を持っていて、中には赤黒い液体が入っている。その液体が何かはわからない。だが、少年の本能が危険だと警鐘を鳴らしていた。あれはヤバい……命に関わるかもしれない……。
 しかし、坂井は気にも留めていなかった。針から液体が出ることを確認し、それを少年の右腕に突きつけてきた。
 「な、何するの……?」
 「決まってるだろ、しつけだよ」
 「しつけ……?」
 少年は意味がわからずに聞き返す。けれど坂井は何も答えず、ただ笑っているだけだ。
 「い、嫌だ! 謝るよ! もうしないから……!」
 力の限りに暴れてみるが、坂井の力に押さえつけられ、何もさせてもらえない。
 「やめてよ! お願いだから、ねぇ!」
 少年は必死に懇願するが、それは坂井の気持ちを盛り上げるだけで逆効果だった。そして愉しげに口角を上げた坂井は、彼の右腕に注射針をゆっくりと突き刺していった。

 謎の液体を注射されてから数日――地下室で指導を受けていた少年の体は、激しい倦怠感に襲われていた。体に力が入らず、かなり衰弱した状態で横たわり、普段通りの生活すら難しいほどであった。
 あのとき注射された赤黒い液体は、坂井が精製し、自分でも常用している薬物だった。原料はプランターで生育している『赤いバラのような花』で、花弁の部分からある成分を抽出することができるのだという。坂井は、その成分を固形化した錠剤を小瓶に入れ、地下室に常備していた。今日も、すでに何錠かを服用している。
 「いい感じに仕上がってきたじゃないか、ええ?」
 坂井が歪んだ笑みを浮かべながら、そんなことを口にする。薬物を使ったからか、いつも以上に気分がハイになっているようだ。
 だが、少年は答えることができなかった。反応するのが億劫ということもあるが、毎日のように薬漬けにされているせいで、精神状態が芳しくないのだ。『黒い影』や『影の中から覗く瞳』などといった幻覚も見えるようになり、自分が今何をしているのか、どこにいるのかすら不明瞭になっていた。
 しかし坂井からは、今の状況が面白くないといった雰囲気が漂っている。自分の快楽が満たされないことに苛々するのか、日に日に指導の激しさが増していた。
 「……いつまでそうしてるつもりだ。さっさと動け! 面白くないだろうが!」
 癇癪をおこして、坂井が怒鳴る。けれども少年に声は届いていなかった。
 それが完全に気に障ったのか、彼は乱暴に小瓶のフタを開けた。そしていくつも錠剤をコップの中に取り出して、一気に液体に溶かし始める。いわば効果を増大させた特別性で、飲まされたら何が起こるのか予測できない。
 しかし坂井はそんなことなどお構いなしに、液体を入れたコップを手に持ち、乱暴に口元に近づけてきた。
 「もっと面白くなれ!」
 そう言って坂井は、少年の体を無理矢理に起き上がらせ、口からこぼれるのも構わずに液体を流し込んだ。
 そうして大量の薬を飲まされ、少し経った頃――突如、少年の全身がガタガタと震え始めた。薬物の効果が強すぎるあまり、体が拒否反応で痙攣しているようだった。それだけでなく、やがて彼の意識は混濁していき、目の前にある全てが暗闇に染まっていく。
 そんな少年の頭の中には、相容れない二つの感情が入り混じり始めた。それは母親との思い出による幸せな感情と、それを汚した坂井に対する憎悪の感情であった。
 少年の中で、溢れだす憎悪はとめどなく流れ続ける。
 コイツがいなければ……コイツさえ消してしまえたら……!
 その感情は幸せを押し流すほどで、もはや抑えることはできなかった。やがて少年を支配したのは、この養父に対する攻撃的な感情だけだった。坂井は死ねばいい。今まで味わった恐怖を全て経験させ、絶望の淵に落としてしまえば……!
 けれど、少年の意識が保ったのはそこまでだった。強い薬物の効果に体が耐えられず、もう指一本ですら動かすことができなくなっていた。
 それでも、この憎悪だけは……!
 少年は力を振り絞り、溢れだす憎しみの全てを込めて――。
 「ゆるさない、絶対に……!」
 呪いのようなそんな言葉を、最期に口にした。

“花彦くん誕生編” 第3話に続く(3月10日更新)

★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第1話 底なしの最悪
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第1話 わすれもの
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第3話 明滅
第4話 なくしもの
第5話 赤い幕引き

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配
第5話 制裁