『死印』前日譚小説“花彦くん誕生編” 第5話 制裁(最終回)_01

エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。


“花彦くん遭遇編”1 第1話 底なしの最悪

 「――あのウワサって、本当なのかな」
 学校の教室で帰る準備をしていたとき、クラスで仲のいい友だちが僕にそんなことを聞いてきた。
 思い当たることがなく、僕は首をかしげた。すると友だちは、「あれだよ、夜の学校に少年の幽霊が出るってやつ」と言い、妙に静かな声で語り始めた。そのウワサは、“花彦くん”という幽霊が深夜の学校で出会った人間に何かを言ってくるという内容だった。
 「どうせ、ただのつくり話だよ」
 僕はそう言って、真面目に取りあわなかった。だけどその友だちによれば、彼の知り合いに目撃した生徒がいて、恐怖のあまり今も不登校になっているという。
 まさか、そんなこと。あり得るわけがない。
 冗談を言っているのだと思い、僕は友だちの方に顔を向けた。しかし、そのとき目にした友だちの表情はやけに真剣だった。
 それは今までに見たことがない表情で――ウワサが真実だと物語っているようだった。

 スニーカーの裏で、校庭の砂利をゆっくりと踏みしめた。一歩、また一歩と、僕は慎重に歩みを進める。それでも、普段は気にすることのない地面を踏みしめる音が、不用意にあたりに響き渡るような気がしてならなかった。
 時間は、深夜零時を少し過ぎた頃だろうか。夜中の校庭はあまりにも静かで、自分の足音しか聞こえてこない。気づくと、僕は息をすることすら最小限に留めようとしていた。
 やがて僕は校庭の真ん中あたりで足を止め、正面の建物を見上げた。
 目の前には校舎のシルエットが浮かび上がっている。それを見た僕は、不自然にごくりと唾を飲み込んでいた。
 校舎全体を包み込む暗闇、肌にまとわりつくような冷気、自分以外生きている者の気配がまったく感じられない静寂――。
 それらが、僕の気持ちを一瞬怖じ気づかせる。あまりに不気味な思いに支配され、僕は次の一歩が踏みだせなくなっていた。
 何かが出るんじゃないか。あそこに入ったら二度と戻れないんじゃないか。
 頭の中で、嫌な想像がどんどん膨らんでいく。そんなことはない、あり得ない。そう思っても、それらのイメージは得体の知れない恐怖となって、僕の心を満たし始めていた。
 体が行くなと訴えている?
 そう思ったとき、僕の全身に悪寒が走った。体中の血の気が一気に引くような感覚を覚えた僕は、自然と「……やめた方が、いいのかな」とつぶやいていた。
 本当に行く意味はあるんだろうか? ただ怖い思いをするだけで、何の成果も得られないんじゃないのか?
 そんな気持ちが、浮かんでは消えていく。
 
 だけど僕は、首を横に振って自分の中の弱い気持ちを吹き飛ばした。怖いから帰るなんて選択は、僕には元々あり得ないからだ。
 「情けないよ……。今さら怖じ気づくなんて」
 そう言って、僕はある男――母さんの彼氏のことを脳裏に思い描いた。アイツは重度のアルコール中毒だ。そのうえ、泥酔すると母さんと僕に暴力を振るう最低の男だ。
 もちろん、アイツのことは児童相談所にも相談してみた。けれど、立証できる要素が足りないからとあまり真剣には取り合ってくれなかった。だから、僕はもう児童相談所に相談することをやめた。自分達の生活をみじめなものにしているあの男を消し去るには、やはり僕がやるしかないんだ。
 「……くそ、まだヒリヒリしてる」
 僕は右頬に触れた。ここに来る前にアイツから殴られ、少し傷ができてしまったのだ。手を当てると、熱をもったまま少し腫れているのがわかる。どうやら口の中も切れたらしく、未だに血の味が舌に残っていた。
 「僕がもっと強かったら、アイツなんて……」悔しくて、僕は拳を強く握りしめた。目を閉じると、自然に母さんの姿が浮かび上がる。
 ――健、今のうちに逃げて。
 僕が殴られるとき、母さんは必ずそう言った。代わりにひどい目にあうのは母さんなのに……。そんな母さんを見たくなくて、これまでアイツと何度もやりあったけど、そのたびに僕は返り討ちにされていた。
 でも僕は、アイツに暴力を振るわれるたびに思った。――このまま、やられ続けるわけにはいかないと……。そして僕は一つの計画を思いついた。うまくいけば、すべての悪い状況が一気に好転するかもしれない計画を。
 「保健室……あそこから薬を取ってくるだけだ」
 僕は、自らの決意が揺るがないように、自分自身にだけ聞こえるようにそっとつぶやいた。
 必要なのは、睡眠薬だけだった。薬局では買えない強力なやつ……それがあれば、アイツを眠らせてしまうことができる。アイツがいつも飲むお酒に、うまく入れてしまえばいいだけだ。そして眠っている間に母さんと逃げるんだ、アイツの手が届かないところまで……。
 認めたくないことだけど、僕は保健室の世話になることがすごく多い。僕がいつもどこかに傷を作っているのを保健室の女の先生は気づいていて、何かと世話を焼いてくれるのだ。
 だから先生と話すことも多く、保健室のどこかに強い睡眠薬を常備していると、自慢げに話してくれたことを覚えていた。「この話、他の生徒や先生に話しちゃダメよ」と釘を刺されたから、知っているのは先生と僕だけだ。
 僕が今からやることは悪いこと――そんなことは知っている。でも、アイツの暴力を止められるかもしれないのだ。だったらやるしかないじゃないか。これは母さんを助けるためだ。それが叶うなら、僕はなんだってするともう決めてしまったんだ。
 「……大丈夫、僕ならできる」
 僕は、もう一度だけ自分自身に向かってつぶやいた。今の自分は無敵だ。きっとできる。恐いものなんて何もない。
 覚悟を決めなおした僕は、校舎に向かって歩みを再開させた。

 怖じ気づく気持ちは、すでに消えている。けれど、言いようのない不安だけは残っていた。それは、校舎に近づくにつれてさらに増していくようだった。
 気持ちは十分なのに体が拒否反応を示している――そんな思いがちらっとだけ心に巣くっていたが、でももう引き返すわけにはいかない。
 そして、校舎の昇降口まで来たとき――身の毛もよだつ感覚に全身が震えて、一気に寒くなる。まるで、普通じゃない何かが自分のまわりを包み込んでしまったような感じだった。
「な、なんだよ。何かいるのか……?」
 声を上擦らせながら、僕はつぶやいた。
 ここには自分しかいない……はず。それはわかっているけど不気味だった。まるで誰かに見られているような感覚が、肌にふれたような気がしてならない。それは校舎の方からやってくる感覚で、僕は恐る恐る校舎に目を向けた。暗闇でよく見えないが、二階の窓からこっちを見ている誰かががいるような気がした。
 僕の中の不安は消えるどころかさらに増し、心臓の鼓動をみるみるうちに速めていく。
 気のせい……だよね……?
 だけど、この突然の寒けは嫌な感じがした。何に対してかはわからない。でも、無性に嫌な想像をかき立てられるのだ。その想像は、僕の心の中で大きな恐怖へと変化していく。知らず知らずのうちに呼吸も荒くなっていた。
 だめだ、落ち着かなきゃ……。
 僕は鼻から大きく息を吸い、しばらく止めてから一気に吐きだした。それを何度も繰り返す。
 大丈夫。きっと勘違いのはず。一人でいるのが心細くて、変な想像をしちゃうだけだ。何かに見られている気がするなんて、そんなことあるわけがない。
 僕はそう考えて、不安を消し去ろうとした。だけど、ふとその途中、友だちから聞いた「あのウワサ」が頭をよぎった。
 「まさか、あれ……じゃないよな」
 この場の空気に呑まれかけているからか、全ての内容は思いだせない。話の詳細にふれそうになるとするりと逃げていくような感覚がある。僕はそれをもどかしく感じたが、同時に今は考えまいとも思った。
 所詮はウワサだ。幽霊なんているはずがない……。しかしそう思う反面、僕の頭は恐怖に縛られていった。今の時間こそ、その幽霊が出る時間じゃないのか? もし出会ったら、一体どうすればいいんだ?
 僕はもう一度、目の前の校舎を見た。
 中は真っ暗闇で、きっとほとんど見えないだろう。何かが起こるかもしれないし、ウワサの幽霊に出会う可能性だってある。実際、得体の知れない視線のようなものを感じてしまった。
 僕は、校舎を見ながら唾を飲み込んだ。怖さと緊張で喉は乾燥し、手には汗がにじんでいた。体だって震えている。
 正直、怖い。行きたくないし、逃げだしたい。だけど、この中には睡眠薬があるのだ。アイツを止めて、母さんを助けられる唯一の手段が。
「……僕は、絶対にやらなくちゃならないんだ」
 幽霊に出会う怖さより、母さんを助けられない方が百倍怖い。
 僕は、ようやく校舎の中に入る決心を固めた。
 そのときだった。

 「――おい、そこで何してる!」
 突然、背中の方から声をかけられた。振り向くと、少し離れた位置に男が立っているのが見えた。手に懐中電灯を持っているのか、眩しい光が動いている。
 男の姿はよく見えない。だけど、僕には声を聞いただけでそれが誰だか見当がついていた。
 体育教師の島田だ……。どうしてこんな時間に?
 先ほどまでの恐怖が一気に霧散し、それとは違った焦りが胸中に沸き上がった。宿直の教師がいることを、僕は知らなかったのだ。
 大人に見つかること自体避けたかったが、これで捕まったら何もできない。そしてさらにまずいのは、生活担当の教師でもあるということだ。いつも大人にとって都合のいい正義ばかりを振りかざしている島田は、僕ら生徒たちがもっとも嫌い、そして一番目をつけられたくない存在だった。もしこいつが僕の計画を知ったら、朝には母さんとアイツに全てを話すに決まっている。そうなったら、せっかくの計画が失敗するだけでなく、僕と母さんはさらにひどい目に遭うだろう。
 それだけは絶対に嫌だった。
 だから僕は、島田の呼び止めには応じず、咄嗟に顔を隠してその場から逃げた。
「待て!」
 怒鳴った島田が追ってくる。けれど僕は、後ろを見向きもしなかった。
 島田がいるなら、きっと入り口の扉は開いているはずだ。そこから校舎の中に入れば……!
 ほとんど前が見えなくて怖い。息も続かないし、足がもつれて転びそうにもなる。だけど、そんなこと考えている場合じゃない。
 追ってくる気配を背中で感じながら、僕は扉の方へと走り続けた。
 そして扉から校舎内へと足を踏み入れたとき――ねっとりと全身にまとわりつくような視線を感じた。思わずその場で足が止まってしまう。
 今の校舎の中にいるのは自分だけのはずだ。異質な不気味さを肌で感じ、僕の気持ちにこれ以上進むことへの躊躇が生まれた。けれど、すぐ後ろには島田が迫ってきている。捕まって計画を失敗するわけにはいかない……。
 僕は全てを振り切るように、暗闇が支配する校舎の奥へと駆けていった。

第2話に続く(2月26日更新)

★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第1話 わすれもの
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第3話 明滅
第4話 なくしもの
第5話 赤い幕引き

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第2話 オワリ、そして……
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配
第5話 制裁